2009年12月21日星期一

愛情に包まれた英生活 7歳で帰国、成蹊学園に入学

幼少期
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by 槇原稔

ロンドンで生まれた私は家族の愛情に包まれ、穏やかな幼少期を送った。クリスマスや誕生日には友達を家に招き、パーティーを開いてもらった。夏休みは一家で田舎で過ごす習慣だった。雑木林にジュシマツの巣があり、卵を見つけたときは、大興奮して父母に報告した。
ロンドンで忘れられないのは、私の面倒を見てくれたスコットランド出身のミス・グラントという住み込みのナニー(養育係り)だ。後に青年時代に米国に留学したとき、周囲のアメリカ人から「イギリス風の英国だね」とよく言われた。「小さいころ、ミス・グラントと喋っていたおかげだろう」と思い込んでいたのだが、これが全くの間違いと判明する。
成人した後にエジンバラに住んでいた彼女を訪ねると、スコットランドなまりが強く、聞き取るのに苦労した。英国風のアクセントがどこで身についたのか、自分でもいまだに謎のままだ。
家には三菱商事のロンドン支店に勤めていた父の仕事関係の来客が多く、母はそちらに忙殺された。が、私の教育には熱心で、日本語の先生は母だった。
小学校に入学する直前には「水泳だけはできたほうがいい」ということになって、腹の下に紐をかけて、プールの中をぐいぐい引っ張られた記憶がある。今から思うと珍妙な訓練だったが、おかげで泳ぎを覚えた。ちなみに母はそれまでかなづちだったが、私に教えるために自分でまず水泳をマスターしたそうだ。
日本に帰国したのは1937年、7歳のときだ。米大陸経由で横浜に着いた、船員たちに良く遊んでもらったこと、ニューヨークで同地の三菱商事の支店長の歓迎を受けたことなどが思い出される。
思えば7歳までロンドンにいたのは僥倖だった。5歳までに帰国した人には、まるっきり英国を忘れてしまった人が多いが、私はそうはならなかった。英語という言葉が、人生の大きな導き手になったのは往々詳述したい。
父はその後すぐにロンドン支店長として単身で再赴任し、私は母と二人で東京に残った。当時父から来た手紙が幾つか残っている。40年7月の手紙にはこうある。
「稔はだんだん字が上手になるし、間違いがなくなってきた。ミス・グラントにみせたら日本時でも稔の成長が分かるといっていた。Daddy(お父さん)も鼻高々さ」。そう書いた手紙の片隅には鼻のイラストがついていた。
冗談だが父の手紙をみると達筆に驚かされる。母文字は下手ではない。ところが、私は若いころから悪筆で、この履歴書の題字を書くにも苦労した。なぜ両親の達筆を受け継がなかったのか、いまでも悔まれる。
それはともかく、私も頻繁に手紙を書いた。シベリア鉄道経由で送ると船便より早くつくので、いつもシベリア経由で投函した。
帰国後入学したのは三菱グループとゆかりの深い東京・吉祥寺の成蹊学園。当時の成蹊に今までいう海外帰国子女をあつめた操洋学級というクラスがあった。すぐに日本の生活になじめ、友達もたくさんできた。幼かった私は、愉快で満ち足りた日々がいつまでも続くものと信じていた。

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単語

雑木林 ぞうきばやし
じゅうしまつ a chinese hawk-cuckoo
スコットランド scottland 英国、大ブリテン島北部
金槌 かなづち
珍妙 ちんみょう
僥倖 ぎょうこう
追々 おいおい
詳述 しょうじゅつ
鼻高々 はなたかだか
達筆 たっぴつ
悪筆 あくひつ
満ち足りる みちたりる

2009年12月20日星期日

秀才の父 苦学し大学へ 文学好き母は芥川と面識

両親
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by 槇原 稔

私の父、槇原覚は1894年に鳥取との県境に近い岡山の神代村という農村に生まれた。家は小作農で、経済的には貧しかったが、勉強は抜群できたらしい。こんな逸話がある。小学校の先生が教室で質問すると、窓の外から答えが返ってきた。驚いて外を見ると、学校に上がる前に小さな子ともがいて、それが父であった。校庭で遊ぶついでに先生の話を聞いて、すらすら内容を理解したという。
そんな父が親戚を頼って上京したのは14歳のときだった。最初は使い走りや子守を経て、一橋大学に進んだ。貧しい出身の父がこの時代に最高学府まで進学できたのは、一つの縁に恵まれたからだ。
三菱の創業者として有名な岩崎弥太郎には久弥という長男がおり、久弥には3人の息子がいた。久弥はこの3人を手元におかず、本郷龍岡町に寮を作り、教育者を迎えて、同年代の青年達を学友として同居させた。
これは息子達の教育のためであったが、同時に将来の三菱の幹部の養成を考えていたのかもしれない。様々な大学から学生が集まった。父もその一人に選ばれ、援助を受けることになったのだ。父と岩崎家にどんな接点があったのか今では知る由もないが、地方出身の苦学生にとって、これはたいへん幸運なことだった。
お金の苦労から解放された父はテニスに熱中し、いつも浅黒く日焼けしていたという。学業でも優秀な成績を収めた。卒業式で送られたという金時計は、残念ながらもう残っていないが・・・・・・。
卒業後は当然のように三菱商事の門をたたき、1921年に母の治子(旧姓・秦)と結婚した。父28歳、母21歳。この2人の仲を取り持ったのが、母の兄で、三菱商事の社員だった秦豊吉である。
小作農の出身である父とは対照的に、母の実家の秦家は東京で薬商を営み、裕福な暮らしぶりだったようだ。親戚には歌舞伎役者もおり、さらに豊吉は商社務めの傍ら文化的な方面でも活躍した。
戦前にはレマルクの「西部戦線異状なし」やゲーテの「ファウスト」を翻訳し、文名を上げた。「ファウスト」についてはすでに森鴎外の訳があった。「なぜ改めて君が訳すのか」と聞かれた豊吉は、「鴎外はファウスト博士と悪魔のメフィストフェレスの関係を誤解している。その誤りを正したい」と答えだそうだ。後に当方に移籍し、日劇ダンシングチームを育てるなど演出家としての才能も発揮した。
牛込余丁町の秦家の屋敷には、豊吉の友人の芥川龍之介もときどき遊びに来た。龍之介には絵心があって、ちゃぶ台で幼い母の似顔絵を描いてくれたという。そんな影響もあってか、母は若いころは文学志望だったようだ。「水島京子」の筆名で懸賞小説に応募し、自作の小説が雑誌に載ったことも何度かあった。
私が生まれたのは、結婚から9年がたち、父母がロンドンに駐在していた1930年のことだ。母は一度流産しており、両親とも子供は諦めていたそうだ。妊娠がわかって、父は大量のミネラルウオーターを取り寄せた。生まれてくる子供を大事に育てるために万全を期したのだ。

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単語

秀才 しゅうさい
槇原覚 まきはらさとる
神代 かみよ
逸話 いつわ
使い走り
子守 こもり
一橋大学 ひとつばしだいがく
岩崎弥太郎 いわさきやたろう
岩崎久弥 いわさきひさや
本郷龍岡町 ほんごうりゅうおかまち
浅黒い あさぐろい
金時計 きんどけい
秦豊吉 はたとよきち
傍ら かたわら
森鴎外 もりおうがい
日劇 にちげき
牛込余丁町 うしごめよちょうまち
芥川龍之介 あくたがわりゅうのすけ
絵心 えごころ
ちゃぶ台 ちゃぶだい
筆名 ひつめい
流産 りゅうざん

2009年12月19日星期六

人生の半分は海外生活 心はいつも日本とともに

すべて自然体
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by 槇原稔

1930年(昭和5年)生まれの私はいわゆる「昭和1けた世代」に属するが、同じ世代の多くの日本人とはかなり異なる経験を歩んできた。父の仕事の関係でロンドンで生まれた。戦後は縁があって米国に留学し、ニューハンプシャー州にあるセント・ポールズ高校を経て、ハーバード大学に学んだ。
帰国後は父の勤め先であった三菱商事から誘いがあり、入社を決めた。高度成長時代をビジネスマンとして過ごしたが、いわゆる「モーレツ社員」ではなく、社外の人たちとの付き合いも大切にしてきた。92年の社長昇格は、私にとっても、おそらく周囲にとっても、誠に意外なことであった。
私の社長人事が発表されたとき、若いころから読み親しんできたニューヨーク・タイムズ紙は「同世代の青年達が東京大学の入試に苦労しているとき、マキハラはニューイングランドの名門高に通っていた」「三菱の同僚が本社で出世の階段を登っているときに、マキハラはロンドンやワシントンに駐在し、20年以上を過ごした」と書いた。
海外メディアから見ても「異邦人」「エイリアン」と呼ばれた私のような経歴の人間がいわゆる日本の代表的企業のトップに座るのは驚き以外の何ものでもなかったのだろう。
私自身、自分の人生がなぜこんな軌跡をたどったのかはよく分からない。若くして亡くなった父や一人息子の私に愛情を注いでくれた母の有形無形の影響は大きかった。社会に出てからは友人や上司に恵まれ、かつ運が良かったことは確かだ。
若いころから無理はせず、自然体で生きてきた。ポストやその他のものをめぐって、他人と争うこともなかった。「入学試験や入社試験の類は一度設けたことがない」というと、びっくりする人が多い。
私が7歳から19歳まで過ごした東京・吉祥寺の成蹊学園の校名は「桃李ものいわざれども、下おのづから蹊を成す」に由来する。自分に「桃李」ほどの魅力があるとは思えないが、誠実に努力すれば周囲は認めてくれる、というのがとりあえずの結論である。
今年夏、英国出張のおり幼少期を過ごしたロンドン近郊のハムステッドという町を再訪すると、父母とともに暮らしたアパートメントが今もあった。外壁はきれいに塗り直されているが、玄関や窓の形は当時のまま。感慨にふけっていると、私と同年配の紳士が通りがかり「何をしているのか」と聞く。「実は70年前にここに住んでいた」というと、「それは奇遇。私もそのころからの住人だ」
誘われるままに彼の部屋を訪ねると、窓から見える風景は往時とのほとんど変わっていない。近所の友達を集めて開いた6歳の誕生日パーティーが思い出された。
考えてみると、このアパートを振り出しに人生の半分近くを英国と米国で過ごしたことになる。だが、日本の内と外を往来しながらも、心はつねに日本とともにあった。ビジネスの前線を退いた今、戦前から続く東洋学の研究拠点、東洋文庫の理事長を務めているのも何かの縁だろう。「こんな人生も面白そうだ」と、読者のかたがたに思って頂ければ幸いである。


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単語

槇原稔 まきはらみのる
外壁 がいへき
成蹊学園 せいけいがくえん
桃李もの言わざれども、下おのづから蹊を成す とうりものいわざれども、したおのづからみちをなす
往時 おうじ
退く しりぞく

2009年12月15日星期二

バトンタッチ 心の準備 親子の夢、次女がパリデビュー

次世代
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白い画用紙の上を鉛筆が滑らかに走る。今でもこの瞬間が楽しくてたまらない。枕元にスケッチブックを置き、気分が乗ればいつでも鉛筆を動かし、洋服のデザインに思いを巡らす。イブニングドレスから肩の力を抜いたカジュアルウエアまで。どんなデザインもおもいのままだ。大切なのは全体のプロポーションとリズム感。まずは美しい服があり、体の方をそれに合わせるというのが私の持論。右の肩が下がっているのなら、姿勢を矯正すべきだし、ダメならパッとで補整すればよい。そんな気持ちでひたすら仕事に取り込んできた。
「仕事はサーカスの玉乗りのようなもの。足を止めたら転がり落ちて大ケガをする」。私は会社経営をこうたとえてきた。「引退はまだまだ先のこと」と思っているが、この8月21日でとうとう79歳の誕生日を迎えた。さて、この「玉乗り」はいつまで続くのだろうかーー。ただ気力が充実している限り、第一線で走り続けようと思っている。
東京・渋谷の雑居ビルの2階で社員10人ほどで会社を始めたのが1963年(昭和38年)。それが今では社員約400人、年商約120億円。その間、妻と二人三脚で高島屋の顧問デザイナーや皇室デザイナーなどを務め、96年にはアトランタ五輪の日本選手団公式ユニフォームのデザインも手がけることが出来た。
パリの目抜き通りにオープンした直営店は20周年を迎え、売り上げは堅調だ。2002年(平成14年)に発表した「コンパス」という中心を丸く繰り抜いた円形ストールもヒット商品に育った。何とかここまでやってこられたのは、ひとえにすばらしい人との出会いと支援があったからだと深く感謝している。
ところでこの「コンパス」は実用性と美しさを兼ね備えた私のデザインの集大成となった。頭からかぶればマント風、襟元に巻けばドレス風・・・・・・。着方によって様々に表情が変わるのが特徴だ。
思い出すのは05年2月。ウィーン国立歌劇場でソプラノ歌手、グルベローヴァがその「コンパス」を着てステージに上がったことである。
歌劇「ノルマ」を披露した晴れ舞台。彼女は自ら選んだ白い毛皮で縁取りされた楕円形の「コンパス」を身にまとい、心のこもったつややかな歌声を響かせていた。客席からは万雷の拍手がいつまでも鳴り止まなかった。
昨夏には、大きな節目がやってきた。91年に東京コレクションでデビューした次女の多恵がパリで始めてショーを披露したのだ。親子にとって長年の夢だった。私は77年にパリコレに参加し、3年で見切りをつけたから、芦田家としては実に29年ぶりのパリでのショーとなった。
私と妻はあえて欠席し、日本で娘の帰りを待っていた。親がしゃしゃり出たら、娘が脇役になってしまうからだ。次女には随分、昔からパリに出るようにと進めてきたが「もし失敗したら、父の名を汚してしまう」と娘の方が慎重だった。今回のショーは次女にとって意味のある一歩になった。大きな自信にもつながったはずだ。
いつかバトンタッチする日が来るまでーー。私がこれまで人生を通じて得た様々な経験と教訓を次世代にも伝えることが出来るのなら、これ以上の幸せはない。

終わり
(ファッションデザイナー)

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単語

枕元 まくらもと
玉乗り たまのり
雑居 ざっきょ
二人三脚 ふたりさんきゃく
毛皮 けがわ
昨夏 さくか
節目 ふしめ

2009年12月14日星期一

NYで前兆、急遽帰国 奇跡の回復、早朝テニスは封印

脳梗塞
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発作の前触れがあったのはニューヨークのホテルだった。「しゃべっているときの語尾がなんだか変だよ」。有事からこう言われていた。疲れが原因かと思って、当地に駐在していた長女の家族たちと予定していたミュージカル鑑賞をキャンセルし、ホテルの部屋で休んでいたのだ。
私は上半身がふらふら出、壁に手をつかなければ歩けない状態だった。課鏡に移った自分の顔は土色でまったく血の気がなかった。現地の日本人医師に診察してもらうと、早く帰国して精密検査を受けたほうが良いという。そこで急遽、チケットを手配し、日本に帰国することにした。
「使い慣れた湯船に浸かってから、寝床でゆっくり休もう」。そう思って、自宅の風呂場から出たところで電話が鳴った。掛かり付けの病院の医師からだった。「芦田先生、ダメですよ。すぐに入院してください。危険な状態です。スタッフが待機していますから」という。そのまま緊急入院することになった。
この判断は的確だった。翌日、脳梗塞の発作が私を襲ったのだ。最初は右手の指先の痺れだった。それが手のひら、手首、腕、肩と伝わり、あっという間に右半身全体に広がった。もう助けを呼ぼうにも思うように口が動かない。「お、お、おお・・・・・・」とどもったまま私はベッドの上でもがいていた。
幸い、回診中の医師に見つかり、助かったが、もし自宅で発作が起きていたら都思うとぞっとする。「万一のこともあるので親族にも連絡を取れるように」。妻や娘には病院から内々にこんな打診があったようだ。ところが奇跡が起きた。この迅速な診療が予想以上の成果を挙げたのだ。
症状はみるみる回復し、2週間ほどで退院できるまでになった。入院中は出された食事をきちんと間食し、規則正しい生活を送り、優等生だと褒められた。「優等生だ出ずに退院できる人なんて珍しい。幸運ですよ」。婦長さんからもこう言われた。
その間、頭が下がったのは妻の友子だ。緊急治療室の硬くて小さなベンチに見に横たえ、何日も献身的に看病してくれた。おそらく満足には眠れなかったと思う。ありがたいことだと思っている。
後遺症ではないが、一つだけ影響が出た。それは、大好きなテニスを諦めなければならなかったこと。大学に行かなかった私は、体育会に所属してスポーツをバリバリ出来なかったことが心残りだった。そこで51歳になってからテニスを始めた。東京・用賀に専用のコートを2面作り、1年に200日もテニス漬けになっていたのだ。
朝6時にはコートに立ち、8時までラケットを振って汗を流す毎日。そしてシャワーを浴びて9時の会社の朝礼にでるのである。練習相手は慶応大学のテニス同好会出身の若者達。時には日本プロテニス協会の理事長でデビスカップに出場した渡辺功プロにも直接指導してもらった。「遅い青春」を取り戻そうという気持ちからだった。
テニス日記の日付は1982年元日から1998年11月29日まで、さすがに脳梗塞の発作が出て「もう潮時か」と覚悟を決めた。こうして私の「遅い青春」は静かに幕を下ろした。それは、病魔から完全に復帰できたことへのささやかな代償だったのかもしれない。



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単語

早朝 そうちょう
脳梗塞 のうこうそく
土色 つちいろ
血の気 ちのけ
湯船 ゆぶね
迅速 じんそく
婦長 ふちょう
献身的 けんしんてき
心残り こころのこり

「お古」育ち次女が跡取り ともに留学、語学力が財産に

2人の娘
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「ねえ、見て!これ凄いのよ。お姉様のお古なの」。次女の多恵は少女時代、「お古」が素晴らしい物だと信じ込んでいたようだ。
長女の有子には、まるで着せ替え人形のように欧州から買い付けてきた子供服を着せて楽しんでいたので、その反動から長女はファッションにまったく興味を示さない子になってしまった。
逆に、毛玉だらけのセーターなど姉の「お古」を着せて育てた次女の方が、ファッションに関心を持って私の後継デザイナーになるのだから、人生とは分からないものだ。次女は小さいころから絵が大好きで、布とハサミで器用に人形を作って遊んでいた。「私、将来デザイナーになるわ」と自分から言い出したのは小学生の時だった。
娘達を若いうちに留学に出すーー。私は昔からこう決めていた。一つには国際感覚を持っていたほうが仕事のチャンスに恵まれるという狙いから。もう一つは私自身が幼少時から語学で苦労し、ずっと劣等感を味わってきたからだ。特にデザイナーを目指していた次女には、英語のほかフランス語も話せるようになって欲しいと思い、スイスのレマン湖のほとりにある寄宿舎付きの高校に留学させた。
米国に留学した長女の方はすぐに溶け込めたが、次女は大変だったようだ。欧州の裕福な子女が多いこの学校では3、4カ国語話せるのが当たり前。だが次女はフランス語はもちろん英語でさえ満足に通じない。入学してから1年ほどはクラスでも孤立しがちで、国際電話で話す声も心もなしか元気がなかった。
留学した年のクリスマス休暇。私はパリ出張のついでにスイスの高校に立ち寄ってみた。次女が小鳥のようにびくびくしながら学生生活を送っているのを見て、私は胸を痛めた。その夜、一緒に過ごしたホテルで娘は私と手をつないで寝た。よほど心細かったのだろう。翌日、朝日にか火薬琥珀色のアルプス連峰を眺めながら、私は後ろ髪を引かれる思い出日本に帰国した。
「パパ。私、運動会で1等になったのよ。リレーの選手にも選ばれたの」。弾むような声が国際電話から響いたのは年が明けて春になったころだ。運動神経はもともと良かったが、170センチ以上の大柄な生徒もいる中で、小柄な次女が運動会で大活躍したらしい。それがきっかけで学校にもうまく溶け込めたという報告を聞くと、私はホッと胸を撫で下ろした。
身分不相応かなと思いつつも、次女を送り出したスイスの名門校。仕送りも大変だったが、娘達の奮闘が、私にどれだけ力を与えてくれたことか。次女は高校卒業後、米国の美術大学に進み、今では英語もフランス語も自在に話せる。通訳がいないと外国では仕事が出来ない私にとっては、うらやましい限りだ。娘たちに残すことができた無形な財産だと思っている。
その後、長女は全日本空輸に勤める宮伸介君と、次女は山東昭子・参院副議長の甥で旧日本興業銀行に勤めていた山東英樹君とめでたく結婚した。山東君は銀行を辞め、1997年(平成9年)に私の会社に入った。おかげで私の重荷はだいぶ軽くなった。
今では孫が合計4人。昔から私が懸命に追い求めてきた暖かい言えと家族が、ようやく手に入ったとしみじみと実感している。


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単語

多恵 たえ
有子 ゆうこ
毛玉 けだま
幼少 ようしょう
寄宿舎 きしゅくしゃ
裕福 ゆうふく
連峰 れんぽう
奮闘 ふんとう
宮伸介 みやしんすけ
山東英樹 さんとうひでき
重荷 おもに

2009年12月11日星期五

大女優と近所付き合い 石坂浩二さんの絶品料理で歓待

ルリちゃん
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浅丘ルリ子さんは人気画家、中原淳一先生がその才能を見出し、映画「縁はるかに」のヒロイン役抜てきして以来、日活の看板として活躍してきた大女優である。私はかつて、中原先生の内弟子だったこともあり、ひそかに親近感を抱いていた。
トーク番組の衣装を担当したことからルリ子さんと知り合ったが、夫婦ぐるみの付き合いが始まったのは、実は「家」が縁だった。東京・青葉台の自宅を建設するため、私は2年ほどマンション暮らしをしたことがある。そのとき、同じマンションに住んでいたのが浅丘ルリ子・石坂浩二夫妻だった。
「あら、芦田先生じゃない。奇遇ねえ。一体、こんなところでどうしたの?」
「あれ、ルリちゃんか。実は今度、このマンションに引っ越してきたんだよ」
マンションの入り口で偶然、顔を合わせ、こんな挨拶を交わしたことから"近所付き合い"が始まった。
あるとき、京都からマツタケが送られてきたので、私はるり子さんの家に届けたことがある。妻が生地の買い付けで欧州に行っていて、私だけではとても食べきれなかったからだ。すると翌日、ルリ子さんが玄関先に現れた。
「先生。昨日はマツタケ頂いてどうもありがとう。これ、うちのへーちゃんが作ったのよ。すごく美味しいから食べてみてね」
涼しげな笑顔を浮かべながら、ルリ子さんはナプキンのかかったお盆を差し出した。中身はきれいに盛り付けされたマツタケのグラタンとマツタケご飯。ちなみに「へーちゃん」とはルリ子さんが石坂浩二(本名=武藤平吉)さんをよぶときの愛称。また、その料理のおいしかったこと。石坂さんの玄人は出しの料理にはいつも感激した。
家に招待されると、腕によりをかけた山海の珍味をご馳走してくれる。デザートにメレンゲが出てきたときにはただただ脱帽するばかり。フランス料理、日本料理、中華料理、イタリア料理・・・・・・。何でもこなした。台所には丁寧に研いだ柳包丁が何本も下がり、深底鍋など調理道具もたくさん並んでいた。まるでレストランの厨房のようだった。
よくマージャンにも誘われた。そんな時、ジャン卓を囲むのはもっぱらルリ子さん。石坂さんは夜食づくりの担当だった。「へーちゃん、そろそろおなかがすいちゃったわ」。真夜中、ルリ子さんが声をかけると、石坂さんがいそいそと台所に立つ。そして、鳥を丸1日煮込んで取ったという出汁で夜食のラーメンを作ってくれた。
そのおいしかったこと!絶品だった。「ルリちゃんは料理はしないの」と尋ねると「へーちゃんの方が上手だから任せているの」となんともあっさりした返事。そんな飾り気のない人柄に私は好感を抱いた。ルリ子さんは私のショーに駆けつけてくれる。私も彼女の芝居や映画を良く見る。お互いにズケズケと素直に批判し合える気の置けない間柄だ。
浅丘、石坂夫婦が別れてしまった時、私はルリ子さんを力づけようと思って「何か買ってあげようか」と尋ねた。「宝石がいいな」と言うので、「涙の滴」を模った小ぶりのダイヤのイヤリングを送った。時折、まだそれを身に着けてくれているようだ。笑いも涙も共に分かち合ってきた兄妹のような交流が今も続いている。


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単語

石坂浩二 いしさかこうじ
ヒロイン
抜擢 ばってき
親近感 しんきんかん
涼しげ すずしげ
ナプキン
武藤平吉 むとうへいきち
玄人 くろうと
研ぐ とぐ
飾り気のない人柄 かざりけ
滴 しずく
模る かたどる
分かち合う わかちあう

TurnkLinux上にOpenMeetingsをインストール

apt-get install 
apt-get install imagemagic
pat-get install swftools

apt-get install openoffice-headless
soffice -headless -nologo -nofirststartwizard -accept="socket,host=127.0.0.1,port=8100;urp"

2009年12月9日星期三

Serviceコマンドの追加

UbuntuにRedHatにある管理ツールserviceを追加できます

apt-get install sysvconfig

蒼い瞳の奥に「心の父」 アーリントン墓地、今生の別れ

中日米大使
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人との縁は不思議なものだ。マンスフィールド元駐日米国大使が1977年(昭和52年)、日本に赴任してきたときのレセプション。私は社交辞令のあいさつを済ませて早々に退席しようと思っていた。ところが大使の前に立ったとたん、その蒼い瞳の奥になんとも言えない優しい光が宿っているのを感じた。
そこで私は勇気を振り絞り、「大使、素敵なスーツをお召しですね」と話しかけてみた。すると「君もいいワイシャツを着ているじゃないか」といたずらっぽく答えてくれる。その瞬間、笑いがこぼれ、その場の空気がパッと和んだ。私の心も安らいだ。それが最初の出会いである。
なぜだか分からない。気難しいと評判の大使だったが、私とは不思議に馬があった。家族ぐるみでパーティーしたり、旅行に出かけたりするほど親密な交流が始まった。
懐かしいのは84年に芦ノ湖に一緒に家族旅行をした時の思い出だ。メンバーは大使、モーリン夫人と令嬢、そして私たち4人家族。当日はあいにくの雨でボートで湖を渡ったときには皆、びしょぬれだった。でもモーリン夫人は「大してぬれていないわ。アドベンチャーみたいで楽しい」と明るく笑い飛ばしてくれた。
その日は偶然、私の誕生日。夕食時、私のことを大使は「マイ・サン(我が息子)!」と呼んでくれた。大使とは27歳違い。小学5年で父が失った私は大使に「父の幻影」を見ていたのかもしれない。大使も一人娘だけで息子はいなかった。大使の言葉に、私は父親に抱かれているようなぬくもりを感じた。
その2年後には大磯に旅行した。驚いたのは食後。浴衣に着替えた大使はアイルランド民謡「ダニー・ポーイ」を朗々と歌いだしたのだ。「人前で歌うのは初めて」と夫人は不思議がっていた。貧しいアイルランド系移民として出生。幼くして母と死別し、軍役を重ねた末、モンタナの銅鉱山の地下坑で汗にまみれては働いていた彷徨の日々と思いでしたのだろうか。
カーター大統領に任命された大使は、次のレーガン大統領からも職にとどまるように請われ、88年まで歴代最長の11年半も日本に在任する。知日派大使として輝かしい業績を残す一方で、気さくで誠実な人柄は人々を魅了した。
2001年(平成13年)5月。私はワシントンにマンスフィールド氏を訪ねた。前年にモーリン夫人を亡くし、力を落としていると聞いたからだ。夫人が埋葬されているアーリントン国立墓地に着くと、小さな白い墓石を見つけた。私はハンカチで墓石を何度もぬぐった。様々な思い出がこみ上げてきて、私は子供のように泣きじゃくった。
帰りの車中。私と元大使は固く手を握り合ったままだった。もはや言葉はいらなかった。元大使の表情は柔和になり、聖者のようだった。私たちは抱擁を交わして別れた。元大使はいつまでも私の姿を見送ってくれた。もうこれが、今生の別れだと知っているかのように・・・・・・
その年の10月。元大使は夫人の後を追うように98歳で亡くなった。父の記憶が薄い私によって、マンスフィールド氏は国や人種や言葉を超えた「心の父」だった。今でも「ダニー・ボーイ」のあの美しい調べを聞くと、透き通るような蒼い瞳と穏やかな笑顔が懐かしくよみがえってくる。


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単語

今生 こんじょう
宿る やどる
馬がある
びしょぬれ
幻影 げんえい
大磯 おおいそ
銅鉱 どうこう
請う こう
埋葬 まいそう
墓石 ぼせき
柔和 にゅうわ
聖者 せいじゃ
抱擁 ほうよう
透き通る すきとおる

2009年12月8日星期二

無名時代の10年 助手に トンカツ弁当が好物の親日家

ラクロア
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世界的なファッションデザイナー、クリスチャン・ラクロア氏がまだ無名だったころ、東京の私の会社でアシスタントデザイナーとして武者修行していたことがある。年2回来日し、服のデザインの一部を手伝ってもらっていた。パリの香りや流行を取り入れるのが目的だった。
であったのは1977年(昭和52年)に私がパリコレで開いたショー。気鋭のプロモカール氏の助手としてショー会場のベンチにちょこんと腰掛けていたのがラクロア氏だった。緑、黄、赤の派手なチェックのズボンをはいていたので「何だか、伊勢丹の買い物袋みたいだな」と思ったのが強く印象に残っている。
「彼はすばらしいデザイン画を描く。雇ったら必ず役に立つ」。ピカール氏の強力な推薦で我が社のアシスタントデザイナーになった。試しにデザイン画を描かせてみると、粗削りだが確かに光るものがある。結局、ラクロア氏が独立する87年までの10年間、仕事を手伝ってもらった。
こうしたラクロア氏のデザイン画を商品に落とし込むのが、社内で企画や生産を指揮する私の妻の仕事だった。生地を使って実際に商品をつくる過程を体験できたのは彼にとってよい経験になったに違いない。我々も作品のイメージを膨らますのに、彼がもたらす豊かな創造性やパリのトレンドが役に立った。
「この生地で服を作りたいけどいいですか」
「ダメダメ。この生地は少し高いから、まずこっちの生地で作ってみましょう」
アトリエではデザイン画をトアール(白い木綿の布地)で立体化した見本を前に、ラクロア氏と妻が素直に議論しながら作品を仕上げていく。創造性を認めるクリエーターと、冷静な目で採算を見極める経営との激しい鬩ぎ合いだ。ラクロア氏は、いつしか妻のことを「日本の母」と呼ぶようになっていた。
不思議だったのはラクロア氏とピカール氏が来日した際、必ずトンカツ弁当を楽しみにしていたこと。2人とも仕出屋から届いた弁当に、ウスターソースをジャブジャブかけて「おいしいな、おいしいな」と満足そうに食べていた。大好物だったようだ。来日のたびにハシの使い方も上達した。2人の日本びいきは今でも変わらない。
ラクロア氏は物静かだが、南仏プロバンスの出身らしい煮え滾るような情熱と野心を胸に秘めた若きデザイナーの卵だった。ただ仕事のパートナーである妻とは違い、デザイナーである私に対しては一定の距離を保っていた。いわばクリエーター同士の不可侵領域のようなものだ。そんな関係が10年間続く。
ラクロア氏が自分のブランドを立ち上げ、我が社との契約を終えることになった最後の日。我々は送別会を開いた。「実はボクは東京で、生まれて初めてスイス製の高級生地や刺繍を使って服を作ったんです。芦田夫妻から受けた恩は決して忘れません」。ラクロア氏は私たちにこう挨拶してくれた。
ラクロア氏は名声を得た後も、以前と変わらない態度で接してくれる。世界的なデザイナーの無名時代を支えることが出来たのは無上の喜びだ。ラクロア氏はかけがえのない友人であり、いつも心地よい刺激を与えてくる生涯のライバルでもある。


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単語


無名 むめい
親日家 しんにちか
武者 むしゃ
修行 しゅぎょう
荒削り あらけずり
布地 ぬのじ
採算 さいさん
仕出屋 しだしや
物静か ものしずか
秘める ひめる
かけがえ
心地 ここち

2009年12月7日星期一

建築や暮らしぶり観察 昼餐会に三笠宮両殿下ご招待

パリに住む
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「パリで成功しようと思ったら、現地に住まないといけませんよ。いくら超高級ホテルにとまっても、旅人に過ぎませんから」。ある日、駐仏大使だった北原秀雄さんからこういわれたことがある。「もっともな話だな」と思い、早速、パリ中心部で物件を探し始めた。
最初に住んだのはジョルジュ・サンク通りにあるアパート最上階。居間、食堂、台所と3つの寝室、2つのバスルームがあり、社員も2、3人はとまれる大きさだった。家賃は1980年代当時で月25万円。日本の感覚では信じられないほどの値ごろ感があった。次に住んだのはフランソワ・プルミエ広場に面したアパートの3階。
140坪(約460平方メートル)のフロア全体が1つの家という豪華なつくりで、19世紀の建物にあわせて家具も同時代のアンティークでそろえてある。ここは天才画家ピカソの娘のパロマ・ピカソさんに競り勝って手に入れた物件だった。パリの自宅は生地の仕入れや店、ショーの視察で滞在するのに使うだけだったが、実際に住んでみると様々な発見があった。
まずアパートの住人から次々とパーティに招待され、部屋を見せてもらえたのが勉強になった。貴族の子孫だというある人の部屋は由緒ある調度類や美術品であふれ、美術館のようだった。壁に飾ってある絵を眺めていると「それは曽祖父がナポレオンから頂いたものですよ」と言われて、目を丸くした。
かと思うと、住み込みのメイドさんが暮らす屋根裏部屋の惨状には胸が痛んだ。天井は頭がつかえそうなほど低く、床は冷え冷えとしたコンクリートがむき出し。船室のような小窓からわずかな光が差し込んでいるだけで刑務所のようだった。厳然と残るフランスの階級社会の現実を目のあたりにした。
どうなに住まいが豪華でも生活面では意外に不便が多いことも分かった。シャワーが出ない、電話が通じないなどのトラブルは日常茶飯事。しかも修理業者を呼んでもすぐにはこないので、いつもイライラさせられる。何気ない日本の生活がいかに便利かを改めて思い知らされた。
パリ郊外にある数々のシャトーも見学に行った。良い物件があったら買おうと思ったからだ。結局は買わなかったが、これも私には良い勉強になった。建物や庭は必ず左右対称で整然としている。厨房は地下にあることが多く、そこから食堂まではかなり距離がある。使用人を大勢雇わなければとても暮らせないことも分かった。
1991年(平成3年)。パリの自宅で開いた昼餐会に三笠宮崇仁親王、同妃両殿下をお招きしたことがある。殿下は古代オリエント研究の業績が評価されてフランス学士院の外国人会員に選ばれることになり、その就任式に出席するために訪仏されたのだ。私はパリの有名料亭から腕利きの調理人を呼び、懐石料理のフルコースを召し上がって頂いた。
昼餐会の後、私は殿下にフランスの建造物の基本構造や人々の暮らしぶりについても細かくご説明した。これまでアパートやシャトーを物色して得た知識をフルに稼動させた。「今日は良い勉強をさせてもらいました。どうもありがとう」。殿下からこうおっしゃって頂き、私にとっては生涯忘れられない貴重な思い出になった。



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単語

三笠宮 崇仁 みかさのみや たかひと
駐仏 ちゅうふつ
北原秀雄 きたはらひでお
値ごろ感 ねごろかん
競り勝つ せりかつ
由緒 ゆいしょ
調度 ちょうど 家具
曽祖父 そうそふ
頭が支えそう つかえそう じゃまなものがあったり行きづまったりして、先へ進めない状態になる。
冷え冷え ひえびえ
厳然 げんぜん
厨房 ちゅうぼう
物色 ぶっしょく

2009年12月5日星期六

「ただの打ち上げ花火」 商売に結びつかず5回で撤退

パリコレ
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パリ・シャンゼリゼ通りにほど近い「ホテル・エ・シャボー」の会場は拍手と歓声に包まれていた。ステージ上では絞り染めの生地や帯留めを取り入れたドレスなどをモデルがまとい、華麗に歩いている。1977年(昭和52年)春。私は憧れのパリコレに始めて参加した。
評判は上々だった。フィガロが一面で「日本の皇室から飛び出してきたデザイナー」と報じてくれた。赤い縮緬の布に馬の絵や家紋が描かれた東洋風のドレスにも関心が集まった。ショーには約700人が集まり、私は華々しいデビューを飾ることが出来た。
だが、どうしても素直には喜べなかった。いくらメディアで話題になっても、具体的なビジネスに繋がらないからだ。ショーは年2回。一回あたり会場日、人件費、渡航費、材料費などを含めると1億円単位の出費になる。「でも、これではただの打ち上げ花火じゃないか・・・・・・」。むなしさだけが心に残った。
欧米メディアの報道ふりも気になった。日本人だと、なぜか東洋的な要素を求めてくるのだ。最初は"受け"を狙って和風の要素もショーに取り入れたが、実際の顧客はそんなものを求めていなかった。日本から輸出すると、関税が予想以上に高いことも初めて知った。パリコレに挑戦した私の目の前には様々な壁が立ちはだかった。
70年、高田賢三さんがパリコレで華々しくデビューして以来、日本人デザイナーが世界から注目されるようになり、三宅一生さん、山本寛斎さん、鳥居ユキさん、コシノジュンコさんらが参戦した。私もこの流れに乗ったわけだが、パリコレの内実が見えてくると「地に足の着いたビジネス」につなげるのがいかに難しいかがわかってきた。
翌年にはフランス人の気鋭プロモーター、ジャンジャック・ピカール氏に演出を依頼した。「もっと流行を取り入れましょう」という助言に従い、会場をホテルでなくナイトクラブにするなど、少し砕けた感じのショーに衣替えした。だがいくら試行錯誤を続けても、根本的な問題は解決しなかった。
「これでは自分ではなくなってしまうし、何も残らない。もう、お祭りの騒ぎは終わりだ」。通算5回のショーを終えた時点で、パリコレに出るのはやめようと決意した。奇をてらった提言重視型の服や、服作りの概念を破壊するような派手なショーだけがもてはやされるメディアの風潮にもほとほと嫌気が差していた。私の服作りの基本はあくまでもエレガンスなのだ。
再びチャンスが巡ってきたのは89年。パリの高級ブティック街フォーブル・サントノーレ34番地に直営店を開くことが出来たのだ。きっかけは1本の国際電話だった。「パリの一等地に買い得物件が売りに出ている。見ておかないと後悔するわよ」。懇意にしていたフィガロの女性記者が橋渡ししてくれた。
エルメスとイブ・サンローランに挟まれた店はだれでも欲しがる好立地。当時、日本はバブル経済の真っただ中で「ジャパンマネーの威力」などと騒がれた。だが、一流ブランドでも閉店を余儀なくされる激戦区で20年間、営業を続けている店は、今でも数えるほどしかない。
「地に足の着いたビジネスをファッションの本場、パリで体現してきたーー。私はひそかにこう自負している」


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単語

帯留め おびどめ
縮緬 ちりめん 表面に細かいしぼのある絹織物。縦糸に撚(よ)りのない生糸、横糸に強く撚りをかけた生糸を用いて平織りに製織したのち、ソーダをまぜた石鹸(せっけん)液で煮沸して縮ませ、精練したもの。
華々しい はなばなしい
立ちはだかる たちはだかる 手足を広げて、行く手をさえぎるように立つ。
三宅一生 みやけいっせい
山本寛斎 やまもとかんさい
内実 ないじつ
気鋭 きえい
砕ける くだける
衣替え ころもがえ
奇を衒う きをてらう
持て囃す もてはやす 口々に話題にしてさわぐ。ほめそやす。 
風潮 ふうちょう
嫌気が差す いやきがさす
エレガンス elegance 上品な美しさ。優雅。気品。典雅
懇意 こんい
真っ只中 まっただなか
密かに ひろかに

2009年12月2日星期三

高島屋離れ銀座に出店 正田夫人の支援、社交界に人脈

独り立ち
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私は皇太子妃、美智子さまの衣装デザイナーとして仕事をしている間も、高島屋から給料をもらっている状態だった。だが、それでは商品の販売先が高島屋に限られるし、自分の直営店も出せない。そこで独立する機会をうかがうことにした。
心がけたのは一歩ずつ段階を踏むこと。まず1973年(昭和48年)に東京・青山に直営店「ミセス アシダ」をオープンした。高島屋の「ジュン アシダ」とはあえてブランド名を変え、違う商品を扱うことで了承を得た。この店はよく繁盛し、私は独立に向けた確かな手応えをつかんだ
続いて高島屋を説得し、「ジュン アシダ」の商品を京王百貨店にも卸すことを認めてもらった。壁を越えると、チャンスは連鎖的に広がるものだ。やがて阪急百貨店にも商品が卸せるようになった。こうして実績を積み上げながら、ついに75年に高島屋からの独立を果たした。
念願の銀座ゆみき通りに2億7千万円で17坪弱(1坪は3.3平方メートル)の土地を買い、直営店を出したのはその翌年のことだ。買値は1坪1620万円。これは週刊誌に取り上げられるほど話題になった。資金はすべて銀行からの借り入れだったが、会社はグングンと成長を遂げた
直営店を出すメリットは大まかに3つある。
まずこちらが仕上げたい色やデザインを自由に打ち出せること。次に客の反応をじかにつかめること。そして利益率が高まることだ。高島屋の仕入れは買い取り制で、こちらの在庫リスクが抑えられる代わりに商品をどう売るかは高島屋の自由だ。しかもかなりのマージンも取られる。だが直営店をだせばこの構造は大きく変わる。
ついでだが、私はセールは一切せずに商品の97%を売り切ることを目標に掲げてきた。業界では生産量の3割が売れ残るのが常識。だが私はその基準を3割ではなく3%に設定した。生産量を絞り込んだのである。「もっとつくれば売れるのに」とも言われるが、量ではなく質では勝負してきた。商品への愛着が人一倍強いからかもしれない。
さて、銀座に直営店を出したころの年商は20億円弱。今が120億円だから6倍に拡大したことになる。「皇室デザイナー」としての実績が強力な後押しになったし、美智子さまの母上にあたる正田冨美子さんからも、特別な力添えをいただいたことが支えになったのは間違いない。
「世界に大きく羽ばたいてくださいね」。皇室デザイナーをやめた76年、美智子さまにこうおっしゃった。そして正田夫人からは「10年間、妃殿下がお世話になりました。これからは私が全面的に応援します」と激励された。お二人から温かい支援をいただけた私は、本当に幸せものである。
駐日大使夫妻を招いて作品を披露する現在の私のショー形式は、実は正田夫人のアイデアである。最初のショーのメーンゲストに正田夫人とホジソン駐日米大使夫人になって頂き、18カ国の大使夫妻を招待した。大使館には花文字と呼ばれる書体の招待状を送らないといけないなど外交マナーの基本もすべて正田夫人から教わった。
こうして「皇室デザイナー」をやめた私は、日本の社交界にも人脈とビジネスの根を何とか下ろすことができた。我が社の基盤はまさにこの時期に固まったのだ


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単語

正田冨美子 しょうだとみこ
繁盛 はんじょう
連鎖 れんさ
直に じかに
序 ついで
掲げる かかげる
羽ばたいて下さい はばたいて
激励 げきれい
根を下ろす

2009年12月1日星期二

礼服のファスナー壊れる 美智子さま、ミスに触れぬ心遣い

痛恨の失敗
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1966年(昭和41年)私は36歳で皇太子妃、美智子さまの衣装デザイナーとなった。東宮御所に頻繁に伺いながら、公務に必要なスーツやドレスなどを季節や場所、目的にを考慮しながら仕上げていく。常に国民やメディアのの関心を集めていたからどの角度から見ても、完璧な服作りを目指す必要があった。
通常、2、3着を並行して仕上げるが、多いときには10着ほどを同時に手がけることもあった。特に外遊など外交に日程と重なると寝る間もないほどの忙しさだ。毎朝、東宮御所の仮縫い室に入り、持参したデザイン画についてのご意見をお聞きする。それから鏡の前で採寸、仮縫いなど切れ間ない作業が続いた。
美智子さまのあふれるような気品、やさしさ、美しさを引き立てる洋服に仕上げるには、数ミリ単位の繊細な仕上げが必要になる。国家のメンツも関わってくる。それだけに重責とやりがいがある仕事だった。私は斎戒沐浴し、全精力を仕事に注ぎ込んだ。
皇室デザイナーは76年までの10年続けたことになる。その間、思い出は尽きないが、冷や汗をかいたあの失敗談だけは絶対に忘れられない。まさに顔面が蒼白になるような痛恨のミスだった。
「お帰りなさいませ。外遊はいかがでいらっしゃいましたでしょうか」
あるとき、美智子さまが外遊からご帰国されると、私はすぐに東宮御所にあいさつに伺った。美智子さまは普段と変わらない様子で、にこやかにやさしくねぎらいの言葉をかけてくださった。だが、面会が終わって仮縫い室を出ると、私は女官さんから呼び止められた。その方は外遊に随行されたメンバーだった。
「芦田さん。誠に申し上げにくいことですが、ちょっと、お話が・・・・・・」
実は、訪問先の晩餐会にご出席される直前、イブニングドレスのファスナーが壊れるというアクシデントが起きたのだという。それは襟ぐりを大きく取った夜会用の正式礼服(ローブ・デコルテ)。大切な公式行事で身に着ける衣装だった。機転を利かせた女官さんがうまく補修してくれたので、何とか大事には至らずに済んだそうだ。
私は言葉を失い、体中から冷や汗が噴出した。完全に私のミスである。でも、先ほどお会いした美智子さまは普段通りで、そんなそぶりをまったくお見せにならなかった。「なんというお優しさなのか・・・・・・」。私はその心遣いに深い感銘を受けた。
美智子さまから頂いた心温まるプレゼントも忘れることが出来ない。針刺しにハサミ用サックーー。
ともにご自身のお手製である。白と黒の千鳥格子で、縁には可憐な白い花の刺繍が施されている。衣装デザイナーである私への思いやりと真心が込められた最高の贈り物だ。我が家の家宝として大切にしまってある。
美智子さまは私の娘など家族の近況も細かく覚えていらして、会うたびに何かと優しいお言葉をかけてくださる思いだ。皇室デザイナーだった10年間は、私のじんせいで最も充実した記事だった。デザイナーとして、大きな自信と信頼を与えて頂いた。


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単語

痛恨 つうこん
皇太子妃 こうたいしひ
美智子 みちこ
外遊 がいゆう
重責 じゅうせき
斎戒沐浴 さいかいもくよく
冷や汗 ひやあせ
蒼白 そうはく
労い ねぎらい
随行 ずいこう
機転 きてん
素振り そぶり
感銘 かんめい
心温まる こころあたたまる
千鳥 ちどり
格子 こうし

弘宮さまの背広 初仕事 仏壇にたばこそなえ父母に報告

皇室デザイナー
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ある朝、高島屋に出社すると婦人服部長が血相を変えて駆け寄ってきた。「おい、芦田さん。大変なことになったよ。実は宮内庁から電話があって、弘宮さまの背広を作って欲しいと依頼されたんだ」とまくし立てる。「えっ、何だって」。私は思わず聞き返した。
宮内庁の関係者が「少女服」を見て気に入り、推薦してくれたのだという。欧州土産から発展した「少女服」が、思わぬ幸運を運んできてくれた。「とにかく、東宮御所に伺って、皇太子妃の美智子さまと面会して欲しい」。婦人服部長の顔も心なしか上気していた。
身に余る光栄だった。でも美智子さまと面会なんて、一体、どんな服装をして、何を話せばいいのだろう。皆目、見当が付かなかった。とりあえず黒いスーツに地味めのネクタイを身につけ、高島屋が用意した黒塗りのハイヤーに乗って、東京・元赤坂にある東宮御所に向かった。
警備員が敬礼し、鬱蒼とした林の中をなだらかなアスファルトの坂道が続いている。私は身が引き締まるような緊張感を覚えた。東宮御所に入り仮縫い室に案内された。10畳ほどの室内に大ぶりの鏡や応接セットなどが置かれ、静寂の空気に包まれていた。
しばらくするとドアがゆっくりと開き、美智子さまが入ってこられた。
「芦田でございます。このたびは弘宮さまのお洋服を仕立てることになりました。お目にかかれて光栄です。」
私が深々と頭を下げると、美智子さまは優しい笑みを浮かべながら頷かれた。その瞬間、清楚なバラの花のような気品が漂い、私は目がくらみそうになった。
 「こちらこそ、よろしくお願いします。どんな洋服が出来るか楽しみですね」
自己紹介や雑談などで30分ほどがあっという間に過ぎた。夢のような時間だった。帰り際に、女官さんからお土産として白い箱に入ったたばこをいただいた。たばこには菊の花のマークが入っていた。私はそれを自宅に持ち帰り、真っ先に仏壇に供えて天国にいる父と母に報告した。
弘宮さまに仕立てたお洋服はダブルのスーツだった。そのハンサムな弘宮さまの姿の凛々しかったこと!私はまず採寸し、仮縫いを1、2回してから洋服を仕上げた。スーツの出来栄えに美智子さまも弘宮さまも大変満足されたようだった。
まだ赤ちゃんだった弟の礼宮さまのお洋服を仕立てたこともある。まさか仮縫いにはピンを使うわけにも行かず、セロハンテープで代用した。でも礼宮さまが元気に動き回るのでセロハンテープがどうしても外れてしまう。何度もやり直したのをいまでも懐かしく思い出す。
「芦田さん。今度、私が着るお洋服の仕立てもお願いしてもよろしいかしら」
やがて、美智子さまからこんなご依頼を頂いたときは、まるで天にも舞い上がりそうなくらいの喜びを覚えた。人生で最高の瞬間だった。大学も満足に出ていな い私が、皇太子妃の衣装を作るなんて・・・・・・。父や母が生きていたらどんなに喜んだことだろう。今までの苦労が報われた気がした。
「ありがたき幸せです。謹んでお受け致します。」目頭がジーンと熱くなるような感慨をかみ締めた。


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単語

弘宮 ひろのみや
血相 けっそう
宮内庁 くないちょう
捲くし立てる まくしたてる
心成しか こころなしか
皆目 皆目
地味め
ハイヤー
鬱蒼 うっそう
なだらか なだらかな坂
大振り おおぶり 大型
静寂 せいじゃく
眩み くらみ
採寸 さいすん
仮縫い かりぬい
セロハンテープ = セロテープ
報う むくう
感慨 かんがい

「そんな言い草があるか」 高島屋・伊勢丹に二股を謝罪

二人の恩人
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「なぜオレに黙って抜け駆けしたんだ。しかも、よりによってライバルの伊勢丹に!」。高島屋取締役の仲原利男さんは私に掴みかからんばかりの剣幕だった。私を高島屋に引っ張ってくれたのは仲原さんである。まさに飼い犬に手を噛まれたような心境だったろう。
私は懸命に訴えた。「『少女服』の絶対的な販売量が足りません。私は目先の利益が欲しいのではありません。ビジネスとして軌道に乗せたいのです。これは必 ず世の中の家族の役に立つ商品です」。だが、仲原さんの怒りは収まらない。周囲にいた部長クラスもハラハラしながら行先を見守っていた。
私はなおも説得を続けた。
「伊勢丹に売れば生産コストが下がり、高島屋にも利益になる。価格が抑えられればお客様も喜び、一石二鳥にも三鳥にもなるでしょう」
「でもウチとの契約があるだろう。それはどうなる」
「婦人服については高島屋の専属としてきちんと仕事をします。でも『少女服』は契約にふばらないで縛らないで下さい。自由にやらせてください」
その言葉を聞き終わらないうちに、仲原さんは目の前の灰皿をバーンと私の方に投げつけた。たばこの灰が机の上に舞い上がった。
「ふざけるな!そんな言い草があるか」
当然の言い分だった。私に非があるのは明らかだった。長く、重苦しい沈黙が流れた。もう可能性はない。黙って引き下がろう。これ以上、なるべきではない。世話になってきた仲原さんの恩を仇で返してはならない。こう悟った私は口を開いた。
「分かりました。伊勢丹には断りの連絡を入れます。今後は心を入れ替えて、仕事に尽くします。どうも申し訳ありませんでした」
仲原さんはホーッと長いため息を吐いた。ようやく落ち着いたようだった。
「繰り返すが、伊勢丹への販売はやめてくれ。だが、高島屋が全社を挙げて『少女服』を支援する。よろしく頼んだぞ」。親分肌の仲原さんにいつもの快活な笑顔が戻った。私は深々と頭を下げ、その場を退席した。
次は伊勢丹に謝罪に行かねばならない。面会を求めたのは伊勢丹取締役の山中鏆さんだ。それまで仕事上の取引はなかったが、テレビ番組を通じて知り合い、今 回の件でもエールを送ってくれていた。山中さんは後に伊勢丹専務を経て、松屋と東武百貨店の社長に就任し、「ミスター百貨店」の異名を取る人物だ。
この時、伊勢丹は「少女服」を発売するために、東京・青山で新設店舗の工事をかなり進めていた。
「このたびは誠に申し訳ありません。実は『少女服』を伊勢丹から売ることが出来なくなりました」
私はそれまで伏せていた経緯を正直に打ち明けた。
「そうだったのか。それは仲原さんが怒るのも最もな話だ。この話はやめにしようや」
山中さんはそう言って、話を引き取った。店舗の件では損害が出たに違いないが、一切口にしなかった。実にほろ苦い経験だった。仲原さんと山中さんーー。私は男気あふれる2人のリーダーの人情に触れた。今でも忘れられないビジネスの恩人である。


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単語

言い草 いいぐさ
よりによって
かからんばかり
剣幕 けんまく
懸命 けんめい
ハラハラ
仇 あだ
深々と しんしんと
ほろ苦い ほろにがい
男気 おとこぎ

娘への土産がヒントに 伊勢丹への"抜け駆け"ばれる

少女服
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「パリの百貨店プランタンからこないかと誘われている。どうしましょうか」。欧州視察を終えて帰国した私は、高島屋の幹部に伺いを立ててみた。「プランタンと高島屋は友好関係にあり、ひょっとしたら道が開けるかもしれない」という淡い期待があったからだ。だが烈火のごとく怒られた。
「冗談じゃない。パリの百貨店のために君を視察旅行させたわけじゃないんだ。今後も高島屋のために力を尽くして欲しい」。もともと期待半分、あきらめ半分といったところだから「やはりそうだよな」というのが本心だった。むしろ怒られて、ホッとした気持ちもあった。
私はそれまで以上の勢いで仕事に邁進した。ところで、2ヵ月の欧州視察は私に思わぬ副産物をもたらしていた。娘に着せようとせっせと買い漁ってきた子供服である。ダンボール3箱分もある商品に改めて目を凝らすと、驚かされることが実に多かった。最も感心したのはその服作りの哲学だった。
たとえば3歳用の服には、腰の切り替えの部分に10センチほどの縫い代がたっぷりと織り込んである。これだと、子供の体が大きくなっても、縫い代を少しずつ出せば全体のバランスを損なわずに美しく着られる。日本にはない発想だった。上質なものを大切に長く着る。そこには大人から子供への愛情も込められている。目からウロコが落ちる思いだった。
「そんな思想を生かして、正統な子供服を高島屋でデザインできないものか」。私はこう考えるようになった。自分の娘に着せたいという親の愛情を生かせば素晴らしい商品が出来るはずだ。この提案に高島屋も飛び付いた。1965年(昭和40年)、ブランド名を「少女服」とし、高島屋から売り出すことが決まった。
「少女服」の対象は6歳から13歳。この辺りの年齢層の服が手薄だったから、「少女服」はまずまずの売れ行きを見せた。ところがすぐに問題が表面化した。手間がかかりすぎて利益が出にくいのだ。縫製の手間は大人向けと変わらないが、サイズが多いので品番あたりの販売量がどうしても伸び悩んでしまう。
つまり、絶対的な販売量が足りなかった。一生のうちでも最も体格が変わるこの時期に、一般家庭では被服費に多くの金をかけようとはしない。悩ましいジレンマだった。でも、私は「少女服」のビジネスをなんとしても軌道に乗せたかった。「世の中のために役に立つはずだ」という確信があったからだ。
そこで一計を案じた。販売先を高島屋以外にも広げることにしたのだ。ほかでもないライバルの伊勢丹に・・・・・・。実は「ウチで扱いたい」という内々の打診が伊勢丹からきていた。東京・青山に売り場を用意してくれるという。私にとっては魅力的な提案だった。売り込みにかける伊勢丹の熱意も感じた。
「高島屋とは婦人服のデザイナーとして契約しているのであり、子供服のデザイナーとしては契約していない」ーー。
私はこう言い張ることにした。これは、ほとんど"こじつけ"に近い屁理屈である。この抜け駆け計画は、まもなく高島屋の経営陣の耳に入る。すぐに私は本社から呼び出しを受けた。
役員室に入ると、いつも世話になっている取締役の仲原利男さんが顔を真っ赤にして立っていた。


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単語

抜け駆け ぬけがけ
プランタン
伺いを立ててみる
縫い代 ぬいしろ
目からウロコが落ちる
まずまず
売れ行き うれゆき
縫製 ほうせい
品番 しなばん
ジレンマ
こじつけ

2009年11月27日星期五

2009年11月25日星期三

「パリで働いてみないか」 語学研修条件、仏百貨店が誘い

欧州視察
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飛行機の窓から外をのぞくと、見慣れた東京の街がゆっくりと雲間に消えていった。胸がドキドキと高鳴り、気分が高揚してくる。「これから何でも見聞きし、貪欲に吸収してやるぞ」。羽田空港から飛び立った私は心の中でつぶやいた。
1963年(昭和38年)1月の肌寒い日。私は旅行社が募ったファッション視察団に参加し、あこがれの欧州に初めて向かった。すでに高島屋のデザイナーとして実績は残していたが、自分の力が本場でも通用するのかをこの目で確かめたくなったのだ。
2ヶ月、仕事を休んだ。高島屋はその間の費用も給料も出してくれた。渡航先はオランダ、英国、フランス、スペイン、イタリアなど。でも最も印象深いのはパリだった。まず町並みの美しさに心を奪われた。高さや色が見事に統一され、広場は噴水や花壇で華麗に飾られている。
威風堂々としたシャンゼリゼ通りにも圧倒された。一流ブティックが集まるフォープル・サントノーレ通りのそぞろ歩きには心が浮き立った。待ちにはシックに着飾ったマダムが行き交い、洗練された様々な洋服が店先を鮮やかに彩っていた。パリの街全体がショーウインドーだった。
「娘に着せたいなあ」。店先を覗くたびに気になったのが子供服だ。イカリのマークが入った赤と白の水兵服、真っ白ななめし革のスカート・・・・・・。日本に残してきた2歳の娘のために私はせっせと買い漁った。2ヶ月間でダンボールに3箱もたまり、持ち帰るのに苦労したほどだ。
さて、私はころあいを見計らい、オペラ座近くにある老舗百貨店プランタンを訪ねてみた。日本から用意してきたデザイン画を見てもらうためだ。デザイン室で面談した担当者は作品に丹念に目を通すと、私に笑顔を向けた。「素晴らしい出来栄えだ。これならパリでも十分通用するよ。今すぐにここで働かないか」
驚いたのは私のほうだった。具体的な給与額までその場で提示されたのだ。思わぬ急展開に私は当惑した。
「ただし」と相手は続けた。「問題はあなたの語学力。職場では議論が中心だから、言葉がわからないと仕事にならない。語学学校でフランス語をみっちりと鍛えること。これが入社の条件です」。私は回答を保留し、渋滞先のホテルに引き返した。
「へえ、そんなに給料をもらえるの?すごいじゃない。パリに出てこいよ」。以前からの友人でパリの有名工房で就業していた防止デザイナー、平田暁夫さんに話すと、自分のことのように喜んでくれた。私の心は激しく揺れた。とにかく帰国し、よく考えてから答えを出すことにした。
ところで海外暮らしが長くなると、どうしても恋しくなるのが和食である。パリ滞在中、いつもお世話になったのがモンパルナスにあった平田さんの自宅だった。焼き魚にみそ汁、ご飯など奥さんの手料理に舌鼓を打った。こうして2ヶ月はあっという間に過ぎた。実り多き旅は終わり、私は帰国の途についた。
羽田空港に着くと妻と娘が出迎えに来ていた。久々の家族の対面である。「おーい、今帰ったよ」と娘に手を振ると、「え?どこのオジチャマ」と首を傾げている。絶句した。2ヶ月間、会わないうちに娘は私のことをすっかり忘れてしまっていた。


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単語

雲間 くもま
見聞きす みききす
貪欲 どんよく
渡航先 とこうさき
噴水 ふんすい
花壇 かだん
威風堂々 いふうどうどう
漫ろ歩く そぞろあるく
行き交う いきかう
せっせと
見計らう みはからう
丹念 たんねん
出来栄え できばえ
当惑 とうわく
平田暁夫 ひらたあきお
舌鼓 したつづみ
傾げる かしげる
絶句 ぜっく

2009年11月24日星期二

高級既製服を世に問う 数十億円の仕事、分刻みで働く

高島屋
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1960年(昭和35年)日米安保条約の改定で世の中は騒然とし、池田勇人内閣が「所得倍増計画」を声高に叫んでいた。「もはや戦後ではない」と経済白書がうたったのが4年前のことだ。高度成長、大量消費時代を迎え、日本のファッション界にも改革の風が吹き込んでいた。この年、私の人生で重要な出来ことが2つ重なった。1つは後輩デザイナーだった富田友子との結婚。もう1つは、高島屋とデザイナー契約を結んだことだ。そのころの百貨店は、一般にはまだ耳慣れない「プレタポルテ(高級既製服)」の分野を強化しようとしている時期だった。
それまで、洋服は布地を買って自分で作るか、洋装店で仕立てるかしかなかった。デザイナーと言えば、流行服の写真が載ったスタイルブックをパラパラとめくりながら、「袖はこのディオール風で、襟はこのサンローラン風で仕上げましょうか」などと欧米デザイナーの作品をコピーするのが関の山だった。
「だが、これからはデザイナーの時代になる。百貨店のオリジナルを作れる人材を探せ」。こんな方針を打ち出した高島屋が目をつけたのが私だった。ジョンストン自体に高島屋にはすでに私のコーナーがあり、商品がよく売れていたからだろう。私を引き立ててくれたのは東京店の営業部長で、後に高島屋専務になる仲原利男さんだった。
勤務は1日おきの週3日制。残りは自分が抱える顧客をこなすという「二足の草鞋」状態だった。だが15年続いたこの高島時代に、今のファッションデザイナー、芦田淳が作られたといってもよい。デザインや色、生地、売り場の展示法まで一切を任され、ビジネスの基本をみっちりと叩き込まれた。
たとえば次のテーマは「ジュネス(仏語で青春)」で行こうと社内で決まる。すると私が色や素材を選び、服をデザインし、高島屋の全店で販売するのだ。数十億円規模のビジネスである。責任は重大だ。だが自分のアイデアを世に問い、その結果を肌で確認できるやりがいがあった。
出勤日は朝から深夜まで分刻みの忙しさだった。
「来シーズンはこんな商品を企画してほしい」
「どんな色をいくつ仕入れたらいいか相談したい」
婦人服、紳士服、運動着、子供服、下着、ネクタイ・・・・・・。各部門の責任者や担当者との打ち合わせが、切れ目なく入る。その間に各階の売り場を巡回し、客の反応や売れ行きにも細かく目を配った。
すっかり疲れ果てて深夜中に帰宅すると、翌日昼まで泥のように眠った。でも「オレが店を支えているんだ。陰の社長なんだ」くらいの自負心があった。合言葉は「伊勢丹や西武百貨店に負けるな」。社員が一丸となり、全社挙げて戦闘体制に入っていた。
有志による勉強会にも参加した。売り場の課長レベルと週1回、仕事が終わった後に議論する。「ファッションの未来とは」「百貨店が向かうべき方向とは」。夜遅くまで意見を激しくぶつけ合った。仲原さんはそんな様子に目を細めながら、全面的に支援してくれた。
ファッション界には新たなビジネスの地平を切り開こうという活気があふれていた。こうした渦の中から多くの男性デザイナーが生まれたのだ。私もその一人だった。


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単語

池田勇人 いけだはやと
声高 こわだか
布地 ぬのじ
捲る めくる
袖 そで
襟 えり
仲原利男 なかはらとしお
二足の草鞋 にそくのわらじ
仏語 ぶつご
分刻み ふんきざみ
売れ行き うれいき
伊勢丹 いせたん
渦 うず

2009年11月21日星期六

「その婚約、破棄してくれ」 貯金なく、指輪はトルコ石

略奪愛
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独り身で外食に飽きていた私は、3歳下の後輩デザイナー、富田知子の家に呼ばれて、頻繁に食事を共にするようになっていた。とは言っても兄と妹とのような関係で、まだはっきりした恋愛感情のようなものはない。
日本橋で有名な紳士服店を営んでいたこともある資産家だった。父は2枚目の歌舞伎役者のような優男。 母は気風の良い姉御肌。ともに大変な食道楽で、「いつもごちそうになります」と私が顔を見せると、目を細めながら、四節折々の旬の食材を使ったおいしい料理を出してくれた。
後で聞いた話だが、物怖じせずに他人の家に上がりこみ、ズケズケといいたいことを言う私のことを、義父は「決して二枚目ではないが、ああいう男は出世するぞ」と褒めてくれていたらしい。義父とは対照的な無粋なところが見込まれたのかもしれない。
ジョンストンは社員30人くらいの会社でデザイナーは友子も含めて7人ほど。会社では上司と部下だが、年は3つしか離れていないから友人のようなものだ。一緒に食事したり、飲みに行ったり、仕事や見合いの相談に乗ったりという状態が続いていた。
そんなある日、友子が改まった表情で「話があるの」と声をかけてきた。聞いてみると「ある男性と婚約を交わし、挙式する準備を進めている。だからウエディングトレスをあなたにデザインしてほしい」という。すでに日取りも決まっていた。私は、いきなり横っ面をぶん殴られたような衝撃を覚えた。
「落ち着け。落ち着け」。自らに言い聞かせた。妹のように思っていたあの友子が他人のものになってしまう。それは寂しいことではないか。いや、いや、寂しいどころではない。これは絶対に受け入れてはいけない事態だぞ!その瞬間、私は友子への熱い感情に初めて気付いた。そして、土壇場に追い込まれた自分の窮状も悟った。
しばらく黙考した後、意を決して友子に言った。「その婚約、破棄してくれないか。君と結婚したいんだ!」。私の唐突の申し出に友子は驚き、首を振った。「ダメよ。もう式場も予約し、招待状も印刷しているんだから」。「分かった。とにかくご両親に相談しよう」。私は居ても立っても居られず、友子の実家に向かった。
両親は私の言葉にじっと耳を傾けていた。やがて義母が居住まいをただしながら口を開いた。「事情は良く分かりました。招待状はすでに印刷していますが、こちらで何とかとめさせましょう。2人とも決心はいいですね。実は私たちも、かねがね2人が一緒になるのがいいと思っていたのですよ」。凛とした口調が広間に響き渡った。
私は胸をなでおろした。だが、いざ結婚が決まってみてハタと困った。浪費続きで婚約指輪を買う金がなかったのだ。「申し訳ありません、実は私には貯金がないのです。今買えるのはせいぜいトルコ石くらいです」。正直に打ち明けると、義母は笑いながら「お金なんて問題ではありませんよ。これから立派になって、おおきなダイヤでも買ってやってくださいな」とからりといってのけた。
1960年(昭和35年)3月15日。私と友子ははれて結婚した。この結婚を機に、私の人生の運気は一気に上昇する。


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単語

略奪 りゃくだつ
営む いとなむ
優男 やさおとこ
気風 きっぷ
姉御肌 あねごはだ
食道楽 くいどうらく
四節折々 しせつおりおり
物怖じせず ものおじせず
義父 ぎふ
義母 ぎぼ
無粋 ぶすい
日取り ひどり
横っ面 よこっつら
打ん殴らせた ぶんなぐられた
土壇場 どたんば
窮状 きゅうじょう
悟る さとる
黙考 もっこう
居住まい いずまい
正す ただす
かねがね ー 以前からずっと
胸を撫で下ろす むねをなでおろす
ハタと困る ー 突然 困る
晴れて ー 世間に正式に認められて、もうだれにも遠慮する必要のないさま。公然と。

2009年11月19日星期四

宵越しのカネは持たず 母の急死後、表参道に引っ越し

気ままな独身
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私は東京・人形町にあるアパレルメーカー「ジョンストン」に移った。紳士服メーカーだったが、「婦人服を本格的に手がけたい」 というオーナーの意向で私に白羽の矢が立ったのだ。
入社するとすぐ高島屋の店舗に「キュート・コーナー」という私の売り場ができた。ジョンストンの看板デザイナーとして、私は驚くほどの高給をもらった。ほかにファッション雑誌への掲載料など副収入もあったから、独り身には十分すぎるほどの額だった。
そこで東京・下落合に念願の一軒家を借り上げ、母や戦争未亡人になっていた長姉、その息子たちを呼び寄せて一緒に暮らすことにした。病弱な母のために風呂も増築しった。こうして曲がりなりにも、「自分の城」を手に入れたのだ。家は急ににぎやかになり、私は一家の生活を支える大黒柱になった。
だが、その状態も、つかの間で終止符を打つ。1957年(昭和32年)に母が69歳で急死したからだ。その前夜、不思議な予兆があった。襖一枚隔てた隣から「ヒトシー」という叫び声が聞こえたのだ。急いで様子を見に行くと母の寝言だった。当時、離れて暮らしていた四兄、等の夢を見たという。
そして翌朝、姉が食事を運ぼうとして母の部屋に入ると、母は既に息を引き取っていた。心臓疾患による病死だった。抱きしめると、まだぬくもりがあった。父の病死後、兄弟姉妹の元を転々としながら女手一つで私を育ててくれた母。死に顔が安らかだったのが心の救いだった。私は心づくしの葬式を挙げ、母を天国に送り出した。
母の死後、私は長姉の家族と別れ、一人暮らしを始めた。「今度はデザイナーらしいオシャレな暮らしがしたいな」と思って、表参道にある外国人向けの平屋住宅に引っ越した。2LDKで、寝室や浴室がやけに広いホテルのような家だった。そんな生活感のない部屋で、私の気ままな独身生活が始まった。
朝は渋谷の小粋なレストランでトーストとコーヒーの朝食。夜は繁華街のディスコやナイトクラブを遊び歩く。赤坂のナイトクラブ「コパカバーナ」や新橋のダンスホール「フロリダ」には良く通った。
そして最後には六本木の中華レストラン「皇妃園」でお開き。こんな毎日が続いた。「宵越しのカネは持たない」という矜持だった。
だが外食ばかりが続くとどうしても飽きてくる。「たまには焼き魚をたべたいなぁ」と思って、魚屋でサバを丸ごと1匹買ったが、裁き方がさっぱり分からない。仕方がないから冷蔵庫に入れて放っておいたら、後で水分が抜けてすっかり干かびたら”サバのミイラ”をみつけて、肝をつぶしたこともある。
そんなころ、ジョンストンに運命の女性が颯爽と現れた。新入りデザイナーとして採用された富田友子。今の伴侶である。当時、私は雑誌にも取り上げられる有名人だったから、友子の方は「芦田淳ってどんな人かしら」 と興味津々だったようだ。
だが私の方は「鼻持ちならないお嬢様が入ってきたな」くらいにしか思っていない。ところが、ある劇的な”告白”をきっかけに私の気持ちは急速に友子に傾いていく。

2009年11月18日星期三

ヒット連発、銀座で評判 雑誌掲載、社内でやっかみも

人気デザイナー
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1953年(昭和28年)、初めて就職した「ミクラ」は、後にパリで活躍する高田賢三さんも在籍する既製服メーカーである。ただ当時はデザイナーが7,8人程度で、畳の上で仕事をするような小さな会社だった。
「よし、これなら売れるぞ。すぐに量産にかかれ!」
「あ、これはダメだな。残念ながらボツ!」
毎朝、会議室ではこんな言葉が威勢良く飛び交っていた。ミクラでは、まずデザイナーが見本をつくって会議室で発表し、営業マンが皆の前で本格生産に入るかどうかを判断するやり方だった。デザイナーの実力がそのまま問われる弱肉強食の世界である。
だが、私の服は良く売れた。最初から圧倒的な人気を博したのだ。新人にもかかわらず、あれよあれよという間にデザイナ部長に昇格した。幼いころから兄嫁たちの舶来の洋服やファッション雑誌をみて育ったことや、中原淳一先生に直接鍛えられてきたことのおかげだろう。
私の作品はすぐに評判を呼び、女性誌「婦人画報」などのメディアに大きく取り上げられるようになった。自分の作品が、有名デザイナーの田中千代さんと並んで掲載された時には、飛び上がらんばかりに喜んだ。若い私は次第に有頂天になっていた。
すると、社内から私を糾弾する声が上がり始めた。「会社の生地で服を作り、雑誌を通じて売名行為をしている」というのだ。まったくの濡れ衣だった。おそらく、私へのやっかみもあったのだろう。そんな時、「ひつじや」という別の会社のオーナーが私をスカウトしてくれた。
銀座の生地専門店で、8丁目の大きなウインドーに斬新な服を並べることで知られていた。「よし、やってやるぞ」。私は奮い立った。ここでも私の服は飛ぶように売れた。つくればつくっただけ売れるような状態だった。
当時、街角には高峰秀子さんや笠置シヅ子さんらの弾むような歌声が響いていた。
あの娘可愛いや カンカン娘 赤いブラウス サンダルはいて 誰を持つやら 銀座の街角 時計ながめて そわそわにやにや これが銀座の カンカン娘 ・・・・・・
銀座は流行の発信地だった。夕方になると、着飾った紳士淑女が派手なオープンカーで乗り付け、最先端のおしゃれを競い合う。リボンの付いた水玉模様のワンピース、パラシュートのようなサテン地のスカート、チェック柄のツイードのジャケット・・・・・・。人々は明るくモダンな洋服に夢中になっていた。
そんな銀座で私は評判の若手デザイナーになった。そうなると自然に金遣いも荒くなる。札束をポケットに突っ込んでは、友人を引き連れ、繁華街を練り歩くような日々が続いた。
ただ、どんなに給料が増えても、出るほうもドンドン増えるからカネは全くたまらない。楽天的な性格はこのころから変わらないようだ。
世の中にはまだ戦争の傷跡も残っていたが、人々は廃墟の中から逞しく立ち上がり、新たな価値観やライフスタイルを見つけ出そうと躍起になっていた。そんな人々の心の渇きを癒すのがファッションや娯楽だった。私はそんな心意気に燃えていた。


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単語

飛び交う とびかう
ボツ
博す はくす
舶来 はくらい
濡れ衣 ぬれぎぬ
奮い立つ ふるいたつ
飛び上がらんばかりに喜んだ
有頂天 うちょうてん
糾弾 きゅうだん
高峰秀子 たかみねひでこ
笠置シヅ子 たさぎしづこ
着飾る きかざる
紳士淑女 しんししゅくじょ
競い合う きそいあう
廃墟 はいきょ
逞しい たくましい
躍起 やっき

2009年11月17日星期二

ubuntuでRails環境を設定

sudo apt-get udpate
sudo gem update --system
sudo gem update --no-ri --no-rdoc
sudo gem install rails haml --no-ri --no-rdoc


vim-rails設定

sudo apt-get install vim-rails
vim-rails-setup

2009年11月16日星期一

義姉の和服、映画衣装に 乙羽信子さんらアトリエに集う

芸能界
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人気画家、中原淳一先生の正式スタッフになった私は毎日、張り切ってアトリエに通った。朝9時に顔を出し、夕方には帰るという勤務スタイルである。だが、いつまでたっても電話番や鉛筆削りしかさせてもらえない。私は欲求不満を募らせていた。
ある朝、アトリエに着くと、先生が浮かない顔をしている。理由を聞くと、「百万ドルのえくぼ」というキャッチコピーで売り出そうとしている新人女優、乙羽信子さんの映画衣装で悩んでいるという。令嬢役という設定だが、映画会社が用意した衣装ではどうもイメージが合わないらしかった。
「では、僕が用意しますよ。考えがあります」。私はなくなった三兄の妻の家に行き、和箪笥の中から映画の役柄に合いそうな着物や帯を4、5本を借りてきた。それを見るなり、先生は「そう、これだ」とひざを打って喜んだ。衣装問題はその場で解決。後ほど、乙羽さんからもお礼を言われた。
金沢時代、医者の娘だった兄嫁と暮らし、令嬢が実際に身に着ける着物を見てきた経験が役に立った。「仕事で貢献できた」。初めて手応えを感じた。先生との距離も急速に縮まったような気がする。そのうち、図に乗った私は、持ち前のずうずうしさを発揮するようになる。
「先生、男なのに、なぜパーマをかけてるんですか」。「底の高い靴なんか履いて、歩きにくくないですか」
よくもまあ、人気クリエーターに失礼な質問をズケズケと言えたものだ。先生もさすがに不機嫌そうな顔でこうつぶやいた。「アプレゲール(戦後派=アメリカ文化の影響を受けた若者)という言葉があるけど、君を見て、初めてその意味が分かったよ・・・・・・」
アトリエには乙羽さんのほか司葉子さん、岸恵子さん、高峰秀子さんら多くの人気女優が出入りしていた。やがて、先生は日活の看板女優となる浅丘ルリ子さんも見いだす。日本の芸能界や流行をけん引しようという活気が、アトリエにはあふれていた。
先生は三度の飯より仕事が好きだった。分野は雑誌、映画、服飾など多肢にわたり、睡眠時間はおそらく2、3時間しかなかったと思う。こんなエピソードがある。私が夕方、「失礼します」と退社し、翌朝、再びアトリエに出社してみると驚いた。先生は昨日とまったく同じ姿勢で、まだ仕事を続けているのだ。
「先生、朝食は取ったんですか。顔は洗いましたか」。あきれて尋ねると「ああ、そうか・・・・・・」などといいながらようやく腰を上げ、手水鉢でチョチョッと顔を洗う。そして5分で食事を済ませると、すぐ机に向かってしまうのだ。まるで命を削りながら仕事しているように見えた。
私は「ヴォーグ」などファッション雑誌を参考にしてデザイン画を描き、先生に指導してもらっていた。正式スタッフとはいえ、こちらが授業料を払わなければいけないような状態だった。そんな内弟子時代が2年続く。巣立ちの季節が近付いていた。
やがて先生がパリに旅立ったのを機に、私は東京・茅場町にある「ミクラ」という小さいなアパレルメーカーに就職する。デザイン画を見せると、すぐに採用通知が来た。1953年(昭和28年)。私は23歳になっていた。

師の指導プロの技見た 金はないけど夢へと走る

見習い時代
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破れた窓ガラスからすき間風が吹き込んできた。ささくれ立った畳が蛍光灯の明かりに照らされている。1949年(昭和24年)、高校3年の冬。私は急死した三兄の家を出て、伯父が東京・目白で経営していた種苗会社の社員寮で一人暮らしを始めた。「体に気をつけてね。困ったらすぐに知らせるのよ」。母は私を不憫に思ったのだろう。部屋には不釣合いなくらいの立派な金襴緞子の布団をお持たせてくれた。毎晩、それで眠ると、母の愛情にくるまれているような気がして、体も心も芯から温かかった。
売れっ子画家、中原淳一先生からの個人指導を許された私は大学進学をやめ、デザイン画を描き続けた。そして、毎日のようにアトリエに電話をかけた。だが先生は仕事に忙殺されており、なかなか時間がもらえない。よくても週1回程度。2、3週間会えないこともザラだった。
ただ、限られた先生の指導は中身が濃かった。私が作品を見せると「このポーズは動きに乏しいな」「右足の重心のかけ方がおかしいよ」などとつぶやきながら、鉛筆でササッと手を入れる。するとどうだろう。モデルの手足が動き出し、洋服のデザインがみるみる輝き始めたのだ。一流のプロの技に脱帽した。
先生は白い紙の上にペンを走らせ、フリーハンドで直線や曲線を描く。まるで製図道具のような正確さだ。絵だけではない。雑誌の紙面構成から衣装、さらにモデルや掲載する文学作品、作家の選択まですべて独りでこなした。その縦横無尽の仕事ぶりに私は舌を巻いた。
初めて足を踏み入れたアトリエにも興味津々だった。サロンでは出版社の編集者が数人寝泊りし、絵や原稿が仕上がるの待ち構えていた。人気女優、モデルらも打ち合わせや写真撮影で頻繁に出入りしていた。「これが時代の流行を生み出す舞台裏なのか」。私は目を見張った。
高校を卒業すると、東京・銀座の専門学校にも通った。デッサンを勉強するためだ。女性の裸体を描くのある。なにしろ大学に入っていないし、先生にも頻繁にはあえないから、時間だけは十分に会った。骨格や筋肉の動き、体のバランスの取り方など基礎知識を夢中で学んだ。
見習い時代。まだ仕事はしていないので、贅沢をするカネはない。明日のパンを買うカネすらないことも珍しくなかった。冬になれば雪が靴の中に入り込み、寒さで足先が凍りついた。寒空を見上げては「ああ、新しいゴム靴が買えたらなあ」とどれほど思っことか。ただ夢にむかって走っているという実感だけはあった。だから、決してつらくはなかった。
転機は2年ほどでやってくる。先生の夫人で宝塚歌劇団の元スター、葦原邦子さんから突然、電話が入ったのだ。「主人があなたのことをとても気に入っているの。今後、仕事を手伝ってもらえないかしら」。内弟子にならないかという打診である。給与も出るという。願ってもないチャンスが舞い込んできた。
「ありがとうございます。こちらこそ、宜しくお願いします」。反射的に頭を下げていた。目の前に新しい世界が開けてゆくのを感じた。私は中原淳一先生の正式スタッフとして採用されて、アトリエに毎日、通うことになった。

2009年11月13日星期五

才能信じ弟子入り直訴 兄とは別の道で、反発心バネに

中原淳一
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「中原淳一」といえば女性向け雑誌「それいゆ」や「ひまわり」を創刊した売れっ子画家。憂いを帯びた瞳が印象的な少女の挿絵や服飾、随筆は女性たちに「心の美しさ」を呼びかけ、多大な影響を与え続けた。
ファッションデザイナーを目指す私にとっても、憧れの存在だった。
大学に進学すべきか、それともデザイナーになるべきか。高校生の私はそろそろ将来の進路を決めなければならない時期に差し掛かっていた。まず自分にそれだけの才能があるのかどうかを見極めなければいけない。
そこで描きためたデザイン画を携え、中原先生の自宅に押しかけてみることにした。デザイナーとして自分に可能性があるかを、どうしてもじかに尋ねたかったのだ。私は東京・江古田の自宅兼アトリエを訪ね、思い切って玄関の呼び鈴を押した。
「先生はご在宅ですか。デザイン画を見て頂きたいのですが・・・・・・」。しばらくするとお手伝いさんが顔を出し、「申し訳ありません。中原は留守です。どうかお引り取りください」と丁寧に頭を下げた。「明日ならいますか」「いつなら見てもらえますか」 。私も必死で食い下がるが、取り合ってはもらえない。
それでもあきらめきれない私は、ある日、新聞で先生が講演会をするという広告を見にし、「よし、直接交渉に行こう」と覚悟を決めた。会場に着くと、黒塗りの自動車がズラリと並んでいる。その中から「ひまわり」と書かれた旗をつけた自動車を探し出し、立ったまま待ち続けた。
やがて小奇麗なジャケットを着た先生が現れた。私は付き人の制止を振り切り、慌てて声をかけた。「お願いします。私が描いたデザイン画を見てください」。最初、先生は驚いた表情を浮かべたが、私の必死な形相に気づき、それから、差し出されたデザイン画に視線を落とした。
「分かりました。さあ、クルマにお乗りなさい」。秘書がせかすのを制し、私を自動車に招き入れてくれた。
先生は30枚程度の私の作品をじっくり見てくれた。「これはあなたのアイデアですか」「服もあなたのデザインですか」。穏やかな口調で質問されるたびに私はうなずいた。やがて、先生は私の目を見据えてこう言った。
「あなたには才能があります。ただこの道は決して甘くはないですよ。それでも、やり遂げる覚悟があるなら指導してあげましょう。いつでもここに電話をください。」そう言って、連絡先を書いたメモを差し出してくれた。その瞬間、明るい太陽の光が差し込んできたような、天にも昇るような心持になった。
憧れのスターに才能を認められたという事実に心が弾んだ。よし、これで踏ん切りがついた。もう大学進学はやめよう。「僕は中原淳一の弟子になります」。親族の前でこう宣言すると、皆が色めきたった。「何だって?大学に行かなかったら、まともな人間にはならんぞ」「男のくせに女の服を作るなんて恥ずかしい」
だがどんなに反対されようと、自分の意思は揺るがなかった。兄達が一流大学を出ているなら、自分は別の道で一流になってみせる。そんな反発心がバネになった。私はデザイナーとして活躍する日を夢見ながら毎日、デザイン画の練習に励んだ。

2009年11月12日星期四

「自由に生きる」涙の決意 思い知った人生のはかなさ

三兄の急死
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芦田家には兄弟が集まると必ず始まる伝統行事がある。酒を飲みながら、旧制高校の寮歌を手を打ち鳴らし、大声で合唱するのだ。長兄は六高、三兄は五高、四兄は四高とそれぞれ母校の寮歌を歌った。次兄も負けじと早稲田の校歌を披露した。
この伝統行事は長兄が戦死した後も続く。私はそんな兄達の学歴意識に猛烈な反発心を抱いた。私立の東京高校に進学した私は、まず小学校で肋膜炎を患ったこと、さらに疎開先の山口で英語の授業について行けなかったことが理由で、同期よりも2年も進級が遅れていた。
多摩川のほとりに立つ学校は自然に恵まれたすばらしい環境だった。春になると桜の花が咲き誇り、さわやかな風が頬をなでる。私はこの風景を愛した。土手に座り、滔々と流れる川面を眺めながら、親友と人生や哲学について語り合った。
「オレは大学に行って哲学をやりたいな。芦田は将来、何になるつもりだ?」
「絵が好きだから、大学には行かずにデザイナーにでもなろうかな」
早く自立したいと考えた私は、自分の夢を親友に包み隠さず打ち明けた。大学に進学しないなどと兄には絶対に話せなかったが、親友にはすべてをさらけ出すことができた。真っ赤な夕日に染まった多摩川の土手をみるたびに、そんな青春の記憶が鮮やかによみがえる。
やがて高校3年になり、大学に進学すべきか、デザイナーになるべきかを真剣に悩み始めていたころ、家族にとって大事件が起きた。母と居候していた家の主である、後見人でもあった三兄が急死したのだ。あれだけ元気だった兄が・・・・・・。皆、言葉を失った。
厚生省に勤める三兄は仕事の虫だった。過労がたたったのだろう。ある日、腸チフスを患い、入院することになった。でもまさか命に別条があるとは思っていない。兄嫁の親戚が院長を務める大病院に入院し、治療体制も万全のはずだった。だが信じられない悲劇が起きた。
あれは、穏やかな日曜の昼下がり。私は母と兄嫁らと団欒の一時を過ごしていた。たまたま遊びに来ていた四兄が奏でるピアノの調べに皆が耳を傾け、つかの間の休日を楽しんでいた。そのとき、病院から緊急連絡が入ったのだ。「容体が急変した。すぐに来てほしい」
ただならぬ気配に兄嫁と四兄は直ちにタクシーで病院へ急行。私と母は三兄の子供達の着替えを手伝ってから後を追った。病院に着くと、長い廊下の先に医師や看護師が力なく立っていた。「最善を尽くしましたが、ご臨終です」。主治医がつぶやく言葉を、私はにわかには信じることができなかった。
輸血した血液が体質的に合わずに急死したという。「大病院で、しかも腸チフスで死ぬなんて」。夢でも見ているんじゃないかと思った。病室からは兄嫁達のすすり泣きが聞こえた。東京駅で出征直前に召集が解除されて命拾いをした強運の持ち主に、こんなあっけない結末が待っているとは。
三兄のことを恨んでいたはずなのに、私は涙が止まらなかった。人生のはかなさを改めて思い知った。「これからはメンツもしがらみも捨て、自由に生きよう。人生は自分の手で切り開こう」。それがなくなった兄が残してくれたメッセージのように思えた。

2009年11月11日星期三

親代わりに兄の"愛のムチ" 「男のくせに」デザイン画燃やす

劣等性
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終戦を迎え、母と私は東京の三兄の家で共同生活を始めた。三兄に世話になるのは金沢以来のことだ。五高から東京帝大医学部を立て、厚生省に入った三兄は将来を嘱望されるエリート。勉強が苦手だった私は「鬼っ子」のような扱いを受けた。
カム カム エブリバディ エブリバディ ハウーアーユー・・・・・・
今でも心に突き刺される悔しい思い出がある。それはラジオから軽快なリズムに乗って、流れてくるNHKの英会話番組のテーマソングだ。童謡「証城寺の狸囃子」の替え歌である。当時、私立の東京中学に通っていた私は毎朝、ラジオに耳を傾けるのが日課だった。
食卓で三兄と向かい合い、朝食をとっていると、どういうわけか、都合の悪いタイミングでラジオの講師が次々と質問を投げ掛けてくる。「今の質問に答えてみろ」。その都度、目の前の三兄に問い詰められた。だが、英語が苦手な私にはどうしても答えが思い浮かばない。じっと黙っているのが常だった。
ある朝、三兄がイライラした様子で声を張り上げた。「おい、いい加減にしろ。どうしてこんな簡単な問題が分からないんだ!」。ついに堪忍袋の緒がきれたらしい。次の瞬間、持っていた箸で私の頬を突いた。もちろん手加減しているので怪我はなかったが、鋭い痛みが顔面を走った。
できの悪い弟がよほど歯がゆかったに違いない。今から思えば、私の将来を心配する兄の"愛のムチ"だったとおもう。幼いころに父をなくした私を「父親代わりに鍛えてやろう」と意気込んでくれたのだろう。だが、この仕打ちは私の胸にこたえた。
自分の部屋に引き返すと、目頭が熱くなり、ポタポタと悔し涙があふれた。
そんな出来事が重なるうちに、私と三兄の関係は徐々に冷え込んでいった。どうしても性が合わないのだ。私が向かいの畳屋に上がって焼き芋をもらったり、お手伝いさんの娘と映画に行ったりすると、そのたびにひどくしかられた。流行歌を口ずさむだけで文句を言われた。
心の慰めは婦人服のデザイン画を描くことだった。かつて長兄の家族がニューヨークから持ち帰った素敵な洋服や雑誌を思い起こしながら、様々なデザインの婦人服を描きまくった。空想の世界に自分を逃避させていたのかも知れない。私は自分の居場所が見つからず、孤独感に打ちひしがれていた。
ある日、大切に描きためていたデザイナ画が三兄に見つかってしまった。「男のくせにこんな女の絵ばかり描きやがって。我が家の恥だ」。激高した彼はデザイン画の束を鷲掴みにし、庭のたき火にくべ始めた。赤い炎の中でデザイン画がメラメラと燃え上がっていく。私はそれを悲しい目で見つめていた。
これも兄の"親心"だったに違いないが、当時の私には分からない。ゆがんだ学歴意識を憎み、ひたすら反発心を燃え上がらせた。「何度だって描きなおしてやるさ。絶対にあきらめないぞ・・・・・・」。煮えたぎるような感情をそっと胸にしまいこみ、私は灰になったデザイン画を黙って掃除した。
木枯らしが吹き付ける寒い冬の日。庭一面に白い粉雪が蝶のように舞っていた。

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単語

愛の鞭 あいのむち 愛するゆえに与える罰。特に、体罰。
嘱望 しょくぼう
証城寺の狸囃子 しょうじょうじのたぬきばやし 
堪忍袋の緒が切れる かんにんぶくろのおがきれる もうこれ以上我慢できなくて怒りが爆発する。◆ 「緒」は、ひものこと。「堪忍袋の尾が切れる」と書くのは誤り。
歯痒かる はがゆかる 思いどおりにならなくて、いらだたしい。もどかしい。
胸に応える むねにこたえる 心に強く感じる。痛切な思いが残る。胸にひびく。
目頭 めがしら
激高 げっこう
鷲掴み わしづかみ
焚き火 たきび
歪む ゆがむ
憎み にくみ
煮え滾る にえたぎる
胸に仕舞い込み むねにしまいこみ
木枯らし こがらし

2009年11月10日星期二

腹に響く原爆の地鳴り すし詰め帰京列車は地獄絵

終戦の混乱
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1945年(昭和20年)。中学生の私はいつも腹をすかせていた。疎開先の山口県田布施で楽しみだったのは通学途中、畑で盗み食いした真っ赤なトマト。熟れた実にかぶりつくと、甘酸っぱい香りが口の中に広がった。「こらぁ、なにしちょるかあ」。怒ったお百姓さんから空気銃で撃たれたこともある。
柿もよく失敬して食べた。その甘かったこと。道草は私にとっての唯一の気晴らしだった。農村地帯の田布施の食糧事情は比較的に、恵まれていた方かもしれない。家では豆や粟、ヒエが混じったおかゆやイモ、野菜などをかき込み、何とか空腹感を満たすことができた。
戦況が悪化するにつれ、学校では勤労奉仕が増えてきた。山に登っては一抱えもある丸太を綱で引っ張り、ふもとまで降ろす。田植えにもよく動員された。ヒザまで泥につかり、ヒルに血を吸われながら汗だくになって苗を植えた。稲刈りにも駆り出された。学校で授業を受けることはめっきり少なくなった。
それまで空襲が少なかった田布施にも、灯火管制が敷かれるようになった。あの恐ろしい日はそんな状況下でやってくる。8月6日、午前8時15分ーー。その瞬間、自宅の庭にいた私はメリメリと腹に響くような地鳴りを感じた。「何が起きたのだろう」。皆目、見当もつかなかった。 だが、とんでもないことが起きたことだけは理解できた。
米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが原子爆弾を広島に投下し、一瞬のうちに無数の人間の命を奪ったと知るのはしばらくたってからのことだ。田布施は広島から60キロほどの距離。その爆音が自宅の庭まで届いたという事実に背筋が凍り付いた。9日後の8月15日正午。ラジオで玉音奉送を聞き、私は日本が戦争に負けたと教えられた。
体から力が抜けて、へたへたと地面に座り込んだ。一体、何のための戦いだったのか。泥も汗も枯れ果てた。「これで戦争による生命の危険は消えた。苦しみから解放される。」それが終戦を迎えた私の偽らざる本音だった。空を見上げると、雲一つなく、澄み渡っていた。
終戦を迎えると、三兄は母と私に上京して自分たちと一緒に住むようにと勧めてくれた。私と母は山口から列車で東京に向かうことにした。そのときの車内の様子はその後、何度も夢に出てくるような地獄絵だった。車両は乗客でギュウギュウ詰め。立すいの余地もなく、トイレに立つことさえできない。車内には悪臭が立ち込めていた。
「おら、どけどけ」。そこに途中から帰還兵が荒々しく乗り込んできた。入り口から入れないと分かると、窓ガラスを次々と叩き割って、無理やり体を滑り込ませてくる。私は母の陰でブルブルと震えていた。列車がトンネルに入ると、割れた窓から機関車が吐く煙が入り込み、息もできない。乗客の顔はすすで汚れて真っ黒になった。
終戦直後、戦争の呪縛から解き放たれた日本は混迷の渦中にあった。皆が今日を行き抜くために必死だった。やっとの思い出上京した母と私は東京・久が原にある三兄の家に身を寄せた。兄嫁と子供はまだ疎開先にいた。母と三兄と私の3人の共同生活が始まった。

2009年11月9日星期一

中学まで8キロ草鞋通学 英語分からず2学年遅れる

山口へ疎開
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悲報が届いたのは1944年(昭和19年)暮れのことだった。自ら望んで出征した長兄が戦死したのだ。38歳だった。フィリピン・レイテ島で戦死すー・・・」こんな紙切れが一枚届いただけ。母はその前日、満開の桜のしたで、長兄が最後の別れを告げにきた夢を見たという。虫の知らせだったのだろうか。
父が病死し、長兄も戦争で失った母はうなだれたまま動かなかった。もう悲しむ気力もうせ、涙尽き果てたという感じだった。当時の日本では珍しくもない出来事だったかもしれない。太平洋戦争は終盤に近付き、日本人全員が巨大な悲劇を背負い込んだような状態だった。
そんなころ、三兄にも召集令状が届いた。「長兄に続いて三兄も命を落とすのか・・・」。こんな不安が頭を掠めた。出征を見送るため、家族で東京駅まで出向くと、駅の構内は重苦しい非状な空気に包まれていた。ホームは召集兵を見送る多数の親族や知人たちで込み合い、肩がぶつかり合うほどだった。
「ばんざーい。お国のために頑張ってくるんだぞ」。勇ましく軍歌を歌うものもいれば、涙ながらに千人針を手渡すものもいる。私や母、兄姉らは沈うつな表情で列車の窓越しに三兄と向かい合った。私は何と声をかけたらよいやら適当な言葉が見つからず、黙ってうつむいていた。そのとき、構内のスピーカーからアナウンスの声が響いた。
「厚生省のアシダさん、アシダさーん、至急、駅長室までおいでください」。三兄は慌てて列車を降り、駅長室に向かった。どんな事情があったかはよく分からない。とにかく召集は解除された。「出征は取りやめになったよ」。三兄は拍子抜けしたようにつぶやいた。母の顔には安堵の色が浮かんだ。私もホッと胸をなでおろした。
太平洋戦争は日増しに敗戦の色を濃くしていた。学校では配属軍人による洗練が続き、竹やり訓練もやらされた。東京上空に敵機が飛来するようになり、灯火管制も厳しくなった。そのころ、長兄の家族と暮らしていた練馬の自宅の庭でも形ばかりの防空壕を掘り始めていた。
「戦況が悪化してきた。東京にいては危険だ」。召集を免れた三兄は、私達に直ちに疎開するように促した。行き先は長姉が嫁いだ山口県田布施の実家。手早く準備を済ませ、長兄の家族と別れて、列車で山口に向かった。車内は地方の身寄りを頼り、疎開する人の波であふれていた。窓から見える景色はすでに灰色一色だった。
疎開先はわらぶきの家屋。風呂はなく、寝床にいればノミに食われっぱなし。自転車の使用は禁じられ、私は自宅から学校まで2里(約8キロ)の道を毎日歩き続けた。革靴も禁止され、ズック、やがて草鞋に履き替えた。慣れぬ鼻緒が足の指の股をこすり、血豆が何度もつぶれた。
独協中学でドイツ語を学んでいた私は柳井中学に編入したが、英語の授業について行けず、さらに進級が1年遅れてしまった。当然、学業には身が入らない。つまらなそうな顔をしていると学校でいじめを受けた。山口の疎開生活には、あまりよい思い出がない。
あれだけ好きだったファッションやデザイン画もいつしか記憶から消えうせていた。

2009年11月6日星期五

間取り図描き自分の城 兄嫁の花嫁道具に心躍らす

金沢に落ち着く
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引き上げ先の金沢では、厚生省から石川県庁に赴任していた三兄が待っていた。新居は切り絵のように美しい紅の格子が映える小粋な日本家屋。父の死で韓国から引き上げた母や兄姉、私の4人が暮らすには十分な広さだった。
この時期、私は結核でなくなった父の影響のせいか、肋膜炎を患い、療養が必要な状態だった。「学校を休んで家で寝ていなさい」。医学の知識がある三兄の判断で、私は半年ほど休学を命じられた。部屋の真ん中でこたつを挟み、病弱の母とのんびり寝て過ごす生活になった。
北陸の小京都、金沢の冬は情緒たっぷり。しんしんと雪が降り積もる中、私は知的で濃厚な時間を送ることができた。母と俳句を詠み合ったり、兄の書棚の文学全集を読みあさったり。大好きな夏目漱石の「坊っちゃん」、志賀直哉の「暗夜行路」に出会ったのもこのころのことだ。
翌春、地元の小学校5年に編入する。病気のために学年は1年遅れてしまった。だがうれしい出来事ともあった。三兄が見合い結婚し、東京から美しい花嫁がやってきたのだ。医者の娘という兄嫁は洗練された都会的なセンスにあふれ、家の中はぱっと明かりがともったように華やいだ。
目を見張ったのは兄嫁が持ち込んだ花嫁道具の数々。ボタンの花が描かれた赤い輪島塗の和箪笥や鏡台、机類・・・・・・。優美な気品をたたえた色彩感覚や造形美に心を打たれた。後にファッションでデザイナーの道に進む地下は、おそらくその辺りの記憶が出発点になっていると思う。
当時、私は風変わりな趣味に没頭していた。画用紙やスケッチブックに空想を膨らませながら、ひたすら家の間取りを描くのだ。見物の外観や設計ではなく、なぜか部屋の間取りに夢中になった。小さな家ではダメ。なるべく大きく豪勢な家が好きだった。すると、なぜだか心が落ち着くのである。
父の急死で、生まれ育った韓国・全州の家を手放し日本に引き揚げた私にとって、家は家族そのものだった。居間、台所、書斎、寝室・・・・・・。家の間取りには、そこで暮らす家族の息遣いや生活のにおいが漂っている。私は五感を研ぎ澄ましながら、来る日も来る日も、家の間取り図を描き続けた。
今考えれば、私は韓国・全州の実家によく似た屋敷の間取りを描いていたように思う。いつも客人であふれ、ワイワイガヤガヤとにぎやかな家が好きなのだ。それは、まだ父が健在で大家族が楽しく暮らしていた時代への郷愁だったのかもしれない。
「自分の城を築き、昔のような楽しい生活を取り戻したい」ーー。これが、その後の人生の大きな目標になった。
やがて太平洋戦争が始まり、ニューヨークに赴任していた長兄が慌ただしく日本に戻ってきた。1942年(昭和17年)のことだ。長兄の家族と同居するため、直ちに私と母と三姉は上京する。「芦田家の家長である長兄と暮らしたい」と母が熱望したからだ。四高に進学した四兄は、そのまま金沢に残った。
親族を転々と渡り歩く居候生活はその後もずっと続いた。母に手を引かれ、自分の居場所を求めるさすらいの日々。私は放浪の旅を繰り返す。「家なき子」だった。

2009年11月5日星期四

病院譲り一家で内地へ 楽しかった生活、音立てて崩壊

父の死
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その日を私は鮮明に覚えている。1941年(昭和16年)7月10日。一家の大黒柱だった父が結核で急逝したのだ。大広間に集まった母や姉、兄らはすっかりやせ細った父の亡骸にすがり付き、オイオイと泣き崩れた。
出棺前に撮影したセピア色の写真が残っている。中央に横たわっているのが父の棺。左手の白装束は母と3人の姉。右手の男性陣は長兄を除く兄弟4人。後列右端が小学5年の私である。改めて見返すと、家族の悲痛な叫び声が聞こえてくるようで、今でも胸が詰まる。
その日を境に、すべてが狂い始めた。父の死により、韓国・全州で一、二を争ってきた病院の経営は困難になった。東京帝大医学部を出て、厚生省に勤務していた三兄には病院を継ぐ意思がなかった。九州帝大を出て、東京府庁の役人になっていた長兄はニューヨークの日本文化会館に赴任しており、すぐには帰国できなかった。
母はやむを得ず、父がゼロから築き上げた病院や屋敷の一切を手放し、日本に引き揚げることを決めた。あんなに楽しかった生活や家が音を立てて崩れてゆく。「この先、どうしたらよいものか」。運命の荒波に翻弄された母はみるみるやつれ、床に伏せりがちになった。
ようやく秋になり、引き揚げの準備が整った。すでに独立している兄や姉を除いた母、三姉、四兄、私の計4人が日本へ旅たつことになった。この年の暮れ、日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が勃発する。戦渦に巻き込まれずに家財をすべて日本に運び込み、家族も無事に引き揚げることができたのだから、その意味では幸運だったといえるのかもしれない。
出発の朝。全州の駅のホームは釜山に向かう列車の見送り人で込み合っていた。野球や戦争ごっこで遊んだ級友の懐かしい顔も見える。哀愁を帯びた汽笛が鳴り響き、列車がゆっくりとホームから離れ始めた。私は車窓を開き放って、友人たちに思いっ切り手を振った。
「さよなら。お達者で」
「うん、向こうについたら必ず手紙を書くからな」
胸の奥から悲しさがこみ上げてきて、目の前が涙でかすんだ。私はとっさにかぶっていた学帽を友人に投げた。「僕のことを忘れないでくれよお」。学帽が小さな放物線を描きながら後景に吸い込まれていく。見送り人の姿がゴマ粒のようになるまで、私は手を振り続けた。
行き先は厚生省から石川県庁に派遣されていた三兄が住む金沢だった。4人を迎えるために一軒家を借り上げてくれたという。我々は列車で釜山に向かい、それから下関行きの連絡船に乗り換えた。途中、初めて目にした日本の美しさに私は息をのんだ。荒々しい玄界灘の波間に、薄緑の海岸線がきらめいている。
「いよいよ到着よ。ほら、あそこに見えるのが本州」。母が耳元でささやくと、私は甲板から身を乗り出して、じっと目を凝らした。「ああ神様。これからどんな運命がこようと、どうか私たちをお守りください」。舳先のむこうにくっきりと浮かぶ下関港を眺めながら、私は心の中で静かに祈りをささげた。
41年秋。早くも冬の訪れを告げる潮風が、青黒い海面を這うように吹き付けていた。

2009年11月4日星期三

芦田淳 末っ子 父の愛情一身に 家風にいびつな"学歴意識"も

生家は韓国
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私の生まれ故郷は韓国南西部にある全羅北道の古都、全州である。若き外科医だった父、定男は長男にもかかわらず、京都・丹後地方の実家を離れて、日本統治下の朝鮮半島に渡った。京都の実家は11代、300年以上も続いた旧家だから、かなり思い切った決断だったに違いない。
おそらく古くさい因習や風土を嫌って、「新天地で一旗揚げよう」という野心にかき立てられたのだろう。そんな進取の気風にあふれる父は全州で一、二を争う病院の経営者となる。私が生まれた1930年(昭和5年)ころは生活も安定し、羽振りもかなり良かったようだ。
洋館を併設した自宅の敷地は300坪(約1千平方)もあり、いつも大勢の客が出入りしていた。祝い事があると芸者衆を呼んでは大広間でどんちゃん騒ぎ。行楽シーズンには全州八景に数えられる徳津湖畔に屋形船をこぎだし、湖面を埋め尽くすハスの花がポンッと音を鳴らして咲く様子をよく見物したという。
私には兄が4人、姉が3人いた。8人兄弟の末っ子である。父は56歳で授かった孫のような私を、たいそうかわいがった。宴会でお菓子をもらって帰れば、真夜中でも起こされ、食べさせられた。私が「絵を描きたい」とダダをこねれば、すぐに文具屋から大量の画用紙が届けられた。まるで「砂糖菓子」のように、私は甘やかされて育った。
とはいえ学校では勉強も運動もよくできる優等生だった。成績はトップ。足も速く、運動会ではいつもリレーの選手。いわばクラスのリーダー格で、大勢の友達を引き連れては、日が暮れるまで自宅や近所の空き地で野球やドッジボール、テニス、戦争ごっこに興じていたものだ。
一見、平穏そうな芦田家には、実はいびつな"学歴意識"があった。父は「帝大以外は大学ではない」が持論で、息子達を帝大に送り出し、学問をさせることが夢だった。その期待に応えるように、24歳上の長兄は六高から九州帝大に、19歳上の三兄は五高から東京帝大に進学。2歳上の四兄も後に四高から東大へ進み、絵に描いたようなエリートコースをたどる。
だが帝大受験に失敗し早稲田大学に進学した次兄だけは露骨に冷遇されていた。夏休みに日本から船で帰省するのに、長兄や三兄は一等船室だったが、次兄には三等船室があてがわれた。次兄はその後、養子に出てしまう。そんな厳しい家風に逆って、やがて私は、大学も出ずにファッションデザイナーという異端の道を歩き始める。
それがどれほどの波風を立て、私の心を苦しめることになるのかーー。当時の私にはまだ知るよしもない。
忘れられない光景がある。あれは、たしか5歳か6歳のころ。自宅の風呂場で私は父と母に体を洗ってもらっていた。すると、ふと父がこんな言葉をつぶやいた。「母さん。この子が大きくなるのを、わしらはいつまで見てやることができるのだろうか・・・・・・」 。年を取ってから生まれた末っ子の将来を案じたのだろう。
薄暗い天井を見上げながら、私は子供心にも「こんな楽しい生活は長くは続かないだろう」とぼんやり考えていた。予感は見事に的中する。思い起こせば、あのころが芦田家の絶頂期だった。一家をどん底に突き落とす悲劇は意外なほど速足でやって来る。

加山雄三 永遠の若大将 歌と共に おやじバンド結成、毎月演奏

いのち果てるまで
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「次の曲は『旅人よ』。ご存じの方は、どうぞ一緒に歌ってください。僕を初めて見る外国の方にも、日本では有名な歌手なのだなと思ってもらえるでしょうからね」
2005年10月、米ニューヨークのカーネギーホール大ホールでデビュー45周年コンサートを開いた。客席には日本人の姿も多い。歌の合間は英語で話していたが、ここだけは日本語で。演出の石田弘さんのアイデアだった。
「草は枯れても いのち果てるまで 君よ 夢をこころに 若き旅人よ」。期待以上のものすごい大合唱が巻き起こり、会場にいたみんなの心を揺さぶった。石田さんは涙でぐちゃぐちゃになっている。僕らに対して横柄で冷たかったホールの職員たちまで涙、涙・・・・・・。僕には歌がある。歌い続けてきてよかった。
「加山さん、エレキ引いてくださいよ」。ザ・ワイルドワンズの島英二君にそう言われたのが1994年のこと。あれほど好きだったエレキギターなのに、僕は70年の倒産騒ぎのころに放り出して、ずっと倉庫に捨て置いていた。
ワイルドワンズは後輩の加瀬邦彦君が60年代に結成した僕の弟分で、「思い出の渚」が有名だ。バンド名は僕がつけた。「どんな意味です?」「自然児だよ」 「修善寺ですか」。そんな連中である。
「こんなに錆びちゃって、ひどいや」。島君は僕のギターに新しい弦を張り、アンプにつないだ。ああ、懐かしい音がする。「エレキの若大将」の日々がよみがえった。
「よし、メンバーを集めよう」。僕や島君を含めて7人編成のおやじバンド、ハイパーランチャーズを結成。加瀬君の経営するライブハウス「ケネディハウス銀座」で毎月演奏するようになった。おかげで錆びついていたギターの腕もずいぶん回復した。
06年3月には東京文化会館大ホールで公演した。ポップス系の音楽家がこのステージに立つのは僕が初めてだそうだ。大本直人さん指揮、千住明さん編曲という恵まれた環境で歌った。長女が生まれた時に作った弦楽合奏のためのロンド「真悠子」では指揮棒も振った。あれは緊張した。
連載の前半に「音楽は趣味」と書いた。仕事と考えると楽しみが失われるから、あえて「趣味」と言わせてもらっている。思えば、僕は多趣味な人間だ。船やスキーだけでなく、近年は油彩や水彩画、陶芸にも熱中している。59歳で初めて開いた個展は13回を数え、西伊豆に自分の釜も開いた。鉄道模型やテレビゲームもかなりのマニアだ。
72歳になっても、「永遠の若大将」のイメージが強すぎて、俳優としてはマイナスになった面もあるだろうが、音楽家としてはまったく逆である。多くの人々と共有した夢の世界が「若大将」で、僕の音楽はそこに誘う呪文のようなものかもしれない。
今は「湘南 海 物語 オヤジ達の伝説」と題して、ワイルドワンズと一緒に各地でコンサートを開いている。「夜空の星」や「君と何時までも」を歌えば、お客さんも僕自身も「若大将」の時代にひとっ飛び。心から「幸せだなあ」といえる瞬間だ。
来年はデビュー50周年を迎える。生涯現役でやっていくため、酒もたばこもやめた。僕は歌いたい。夢をこころに、いつまでも。

2009年10月27日星期二

FlatTrend指标的解读

介绍一种以趋势作为判断的交易手法

以4种颜色代表
Red, Salmon, LimeGreen, LightGreen
红, 弱红, 绿, 弱绿

红色表示卖
绿色表示买
弱,表示强度低一级

--------------------------------------------
算法:
--------------------------------------------

主要指标参看:
1.抛物线状止损和反转指标(SAR)
2.平均方向性运动指标 (ADX)

正: SAR值 > CLOSE值
+ADX > -ADX 时强度为2
+ADX < -ADX 时强度为1

负: SAR值 < CLOSE值
+ADX > -ADX 时强度为1
+ADX < -ADX 时强度为2

2009年10月23日星期五

ufw防火墙的使用

防火墙软件 iptables 参数很多比较难用,Ubuntu下面可以用 ufw 来进行防火墙的设置,使用很简单

sudo ufw enable  # 启用ufw防火墙
sudo ufw disable # 关闭ufw防火墙

sudo ufw allow 22 # 打开SSH端口
sudo ufw allow 89 # 打开WWW端口

sudo ufw delete allow 22 # 把打开的22端口设置删除

ufw 下面还有定义好的组合规则
sudo ufw app list # 参看组合规则列表
sudo ufw app info Apache # 参看Apache规则的说明
sudo ufw allow Apache # 启用Apache规则
sudo ufw delete allow Apache # 删除Apache规则
sudo ufw allow "Apache Full" # 打开HTTP, HTTPS运用

ufw 可以使用更多参数
sudo ufw allow from 192.168.0.0/24 to any app Samba # 打开本地网络的Samba运用
sudo ufw delete allow from 192.168.0.0/24 to any app Samba # 关闭本地网络的Samba运用

sudo ufw status # 显示设置的规则列表

如何在网页中显示网页代码

这篇博客里面常常要显示网页代码,直接复制到这里是不行的。
因为有些字符需要转换才会正常显示。以下是一个网页程序用来转换。

http://blogtool.flatlabs.net/source.html

<pre>
你的代码
</pre>

Rails本地化

Rails2.3加入了I18n,已经能够很好的支持本地化(Locale)了
主要为
  • 对框架返回的信息的本地化
  • 对数据库表项目的本地化
  • 对页面文字的本地化

以下是我的一个例子,点这里看效果

实现对 英文,中文,日文 三种语言的支持

RAILS_ROOT/app/controller/application_controller.rb
RAILS_ROOT/config/initializers/i18n.rb
RAILS_ROOT/coonfig/locales/en.yml
RAILS_ROOT/coonfig/locales/zh.yml
RAILS_ROOT/coonfig/locales/ja.yml

application_controller.rb
# 为本地化处理加一个过滤器
class ApplicationController < ActionController::Base
  before_filter :set_locale

protected
  def set_locale
    session[:locale] = params[:locale] if params[:locale]
    I18n.locale = session[:locale] || I18n.default_locale
  end
end

i18n.rb
I18n.default_locale = 'en'

LOCALES_DIRECTORY = "#{RAILS_ROOT}/config/locales/"

LANGUAGES = {
  'English' => 'en',
  '中文' => 'zh',
  '日本語' => 'ja'
}

en.yml
en:
  number:
    currency:
      format:
        unit: "&yen;" 
  
  layout:
    title: "Xi-yang-yang Wedding Garden"
    side:
      home: "Home"
      faq:  "Questions"
      news: "News"
      contact: "Contact"
    cart:
      title: "Your Cart"
      total: "Total"
      checkout: "Checkout"
      empty_cart: "Empty Cart" 

zh.yml
zh:
  number:
    currency:
      format:
        unit: "&yen;"
        precision: 2
        separator: "."
        delimiter: ","
        format: "%u%n"

  activerecord:
    errors:
      # The values :model, :attribute and :value are always available for interpolation
      # The value :count is available when applicable. Can be used for pluralization.
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        exclusion: "保留" # is reserved"
        invalid: "无效" # "is invalid"
        confirmation: "与确认值不一致" # "doesn't match confirmation"
        accepted: "必须被接受" # "must be accepted"
        empty: "不能为空" # "can't be empty"
        blank: "不能为空白" # "can't be blank"
        too_long: "超长(最長{{count}})" # "is too long (maximum is {{count}} characters)"
        too_short: "超短(最短{{count}})" # "is too short (minimum is {{count}} characters)"
        wrong_length: "长度不对(字数必须为{{count}})" # "is the wrong length (should be {{count}} characters)"
        taken: "该值已经存在" # "has already been taken"
        not_a_number: "不是数字" # "is not a number"
        greater_than: "必须大于{{count}}" # "must be greater than {{count}}"
        greater_than_or_equal_to: "不得小于{{count}}" # "must be greater than or equal to {{count}}"
        equal_to: "必须等于{{count}}" # "must be equal to {{count}}"
        less_than: "必须小于{{count}}" # "must be less than {{count}}"
        less_than_or_equal_to: "不得大于{{count}}" # "must be less than or equal to {{count}}"
        odd: "必须为奇数" # "must be odd"
        even: "必须为偶数" # "must be even"
        record_invalid: "验证失败: {{errors}}" # "Validation failed: {{errors}}"
      template:
        header:
          one: "1个错误发生导致处理失败" # "1 error prohibited this {{model}} from being saved"
          other: "{{count}}个错误发生导致处理失败" # "{{count}} errors prohibited this {{model}} from being saved"
        body: "以下的项目出错" # "There were problems with the following fields:" 

    model:
      order: "订购"
    attributes:
      order:
        name: "姓名"
        address: "地址"
        email: "E-mail"
        pay_type: "付款方式" 

  layout:
    title: "喜洋洋婚庆花苑"
    side:
      home: "主页"
      faq:  "常见问题"
      news: "新信息"
      contact: "联系"
    cart:
      title: "你的购物车"
      total: "合计"
      checkout: "购买"
      empty_cart: "清空购物车"
 

ja.yml
ja:
  number:
    currency:
      format:
        unit: "&yen;"
        precision: 2
        separator: "."
        delimiter: ","
        format: "%u%n"

  activerecord:
    errors:
      # The values :model, :attribute and :value are always available for interpolation
      # The value :count is available when applicable. Can be used for pluralization.
      messages:
        inclusion: "リストには含まれていません" #is not included in the list
        exclusion: "保留" # is reserved"
        invalid: "無効です" # "is invalid"
        confirmation: "一致していません" # "doesn't match confirmation"
        accepted: "設定しないとなりません" # "must be accepted"
        empty: "空にしてはいけません" # "can't be empty"
        blank: "空白にしてはいけません" # "can't be blank"
        too_long: "長すぎ(最長{{count}}桁数)" # "is too long (maximum is {{count}} characters)"
        too_short: "短すぎ(最短{{count}}桁数)" # "is too short (minimum is {{count}} characters)"
        wrong_length: "桁数が不正({{count}}桁数)" # "is the wrong length (should be {{count}} characters)"
        taken: "もう設定されていました" # "has already been taken"
        not_a_number: "数字ではありません" # "is not a number"
        greater_than: "{{count}}より大きくしないといけません" # "must be greater than {{count}}"
        greater_than_or_equal_to: "{{count}}以上にしないといけません" # "must be greater than or equal to {{count}}"
        equal_to: "{{count}}ではないといけません" # "must be equal to {{count}}"
        less_than: "{{count}}より小さくしないといけません" # "must be less than {{count}}"
        less_than_or_equal_to: "{{count}}以下にしないといけません" # "must be less than or equal to {{count}}"
        odd: "奇数にしないといけません" # "must be odd"
        even: "偶数にないといけません" # "must be even"
        record_invalid: "検証失敗: {{errors}}" # "Validation failed: {{errors}}"
      template:
        header:
          one: "1個のエラーが発生したため処理が失敗しました" # "1 error prohibited this {{model}} from being saved"
          other: "{{count}}個のエラーが発生したため処理が失敗しました" # "{{count}} errors prohibited this {{model}} from being saved"
        body: "以下のフィールドにエラーが発生しました" # "There were problems with the following fields:" 
    model:
      order: "注文"
    attributes:
      order:
        name: "名前"
        address: "住所"
        email: "E-mail"
        pay_type: "支払方法" 

  layout:
    title: "喜洋々ウエディングガーデン"
    side:
      home: "ホーム"
      faq:  "よくある質問"
      news: "ニュース"
      contact: "お問い合わせ"
    cart:
      title: "あなたのカート"
      total: "合計"
      checkout: "チェックアウト"
      empty_cart: "カートをクリア" 


框架自带的验证出错提示信息可参看这里

2009年10月22日星期四

使用vim插件dbext来查询sqlite数据库时的设置

vim插件dbext可以在vim中使用数据查询

默认是用sqlite
现在最新使用sqlite3

所以在vim配置文件 ~/.vimrc 中加入以下这行

let g:dbext_default_SQLITE_bin = 'sqlite3'

在vim中用select语句来测试
:Select * from table_name;

使用Curl来模拟发送Ajax请求

服务器是根据HTTP请求的头信息来判断是否是一个Ajax请求
以下是一个请求的头信息实例

Accept: text/javascript , text/html, application/xml, text/xml, */*
Accept-Language: en-us,en;q=0.5
Accept-Encoding: gzip,deflate
Accept-Charset: ISO-8859-1,utf-8;q=0.7,*;q=0.7
Keep-Alive: 300
Connection: close
X-Requested-With: XMLHttpRequest
X-Prototype-Version: 1.5.0_rc0
Content-Type: application/x-www-form-urlencoded

其中最重要的是 XMLHttpRequest 信息
那么用curl工具来模拟一个Ajax请求就很简单了

curl -H "X-Requested-With: XMLHttpRequest" http://ryan.heroku.com/store/add_to_cart/2


那么返回的数据将是一个Javascript代码

try {
$$("div#notice").each(function(value, index) {
value.hide();
});
Element.update("cart", "<div class='cart-title'>Your Shopping Cart</div>\n<table>\n  <tr id='current_item'>\n    <td>1 &times;</td>\n    <td>\u4e0a\u6d77\u9c9c\u82b1</td>\n    <td class='item-price'>&yen;129.00</td>\n  </tr>\n  <tr class='total-line'>\n    <td colspan='2'>Total</td>\n    <td class='total-cell'>&yen;129.00</td>\n  </tr>\n</table>\n<form method=\"post\" action=\"/store/checkout\" class=\"button-to\"><div><input type=\"submit\" value=\"Checkout\" /><input name=\"authenticity_token\" type=\"hidden\" value=\"78brTTCuEhmyuLasMW/Q0GtgyzwGpfl4Fr8k1WLQFNU=\" /></div></form>\n<form method=\"post\" action=\"/store/empty_cart\" class=\"button-to\"><div><input type=\"submit\" value=\"Empty cart\" /><input name=\"authenticity_token\" type=\"hidden\" value=\"78brTTCuEhmyuLasMW/Q0GtgyzwGpfl4Fr8k1WLQFNU=\" /></div></form>\n");
$("cart").visualEffect("blind_down");
$("current_item").visualEffect("highlight", {"startcolor":"#88ff88","endcolor":"#114411"});
} catch (e) { alert('RJS error:\n\n' + e.toString()); alert('$$(\"div#notice\").each(function(value, index) {\nvalue.hide();\n});\nElement.update(\"cart\", \"<div class=\'cart-title\'>Your Shopping Cart</div>\\n<table>\\n  <tr id=\'current_item\'>\\n    <td>1 &times;</td>\\n    <td>\\u4e0a\\u6d77\\u9c9c\\u82b1</td>\\n    <td class=\'item-price\'>&yen;129.00</td>\\n  </tr>\\n  <tr class=\'total-line\'>\\n    <td colspan=\'2\'>Total</td>\\n    <td class=\'total-cell\'>&yen;129.00</td>\\n  </tr>\\n</table>\\n<form method=\\\"post\\\" action=\\\"/store/checkout\\\" class=\\\"button-to\\\"><div><input type=\\\"submit\\\" value=\\\"Checkout\\\" /><input name=\\\"authenticity_token\\\" type=\\\"hidden\\\" value=\\\"78brTTCuEhmyuLasMW/Q0GtgyzwGpfl4Fr8k1WLQFNU=\\\" /></div></form>\\n<form method=\\\"post\\\" action=\\\"/store/empty_cart\\\" class=\\\"button-to\\\"><div><input type=\\\"submit\\\" value=\\\"Empty cart\\\" /><input name=\\\"authenticity_token\\\" type=\\\"hidden\\\" value=\\\"78brTTCuEhmyuLasMW/Q0GtgyzwGpfl4Fr8k1WLQFNU=\\\" /></div></form>\\n\");\n$(\"cart\").visualEffect(\"blind_down\");\n$(\"current_item\").visualEffect(\"highlight\", {\"startcolor\":\"#88ff88\",\"endcolor\":\"#114411\"});'); throw e }