2009年12月1日星期二

娘への土産がヒントに 伊勢丹への"抜け駆け"ばれる

少女服
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「パリの百貨店プランタンからこないかと誘われている。どうしましょうか」。欧州視察を終えて帰国した私は、高島屋の幹部に伺いを立ててみた。「プランタンと高島屋は友好関係にあり、ひょっとしたら道が開けるかもしれない」という淡い期待があったからだ。だが烈火のごとく怒られた。
「冗談じゃない。パリの百貨店のために君を視察旅行させたわけじゃないんだ。今後も高島屋のために力を尽くして欲しい」。もともと期待半分、あきらめ半分といったところだから「やはりそうだよな」というのが本心だった。むしろ怒られて、ホッとした気持ちもあった。
私はそれまで以上の勢いで仕事に邁進した。ところで、2ヵ月の欧州視察は私に思わぬ副産物をもたらしていた。娘に着せようとせっせと買い漁ってきた子供服である。ダンボール3箱分もある商品に改めて目を凝らすと、驚かされることが実に多かった。最も感心したのはその服作りの哲学だった。
たとえば3歳用の服には、腰の切り替えの部分に10センチほどの縫い代がたっぷりと織り込んである。これだと、子供の体が大きくなっても、縫い代を少しずつ出せば全体のバランスを損なわずに美しく着られる。日本にはない発想だった。上質なものを大切に長く着る。そこには大人から子供への愛情も込められている。目からウロコが落ちる思いだった。
「そんな思想を生かして、正統な子供服を高島屋でデザインできないものか」。私はこう考えるようになった。自分の娘に着せたいという親の愛情を生かせば素晴らしい商品が出来るはずだ。この提案に高島屋も飛び付いた。1965年(昭和40年)、ブランド名を「少女服」とし、高島屋から売り出すことが決まった。
「少女服」の対象は6歳から13歳。この辺りの年齢層の服が手薄だったから、「少女服」はまずまずの売れ行きを見せた。ところがすぐに問題が表面化した。手間がかかりすぎて利益が出にくいのだ。縫製の手間は大人向けと変わらないが、サイズが多いので品番あたりの販売量がどうしても伸び悩んでしまう。
つまり、絶対的な販売量が足りなかった。一生のうちでも最も体格が変わるこの時期に、一般家庭では被服費に多くの金をかけようとはしない。悩ましいジレンマだった。でも、私は「少女服」のビジネスをなんとしても軌道に乗せたかった。「世の中のために役に立つはずだ」という確信があったからだ。
そこで一計を案じた。販売先を高島屋以外にも広げることにしたのだ。ほかでもないライバルの伊勢丹に・・・・・・。実は「ウチで扱いたい」という内々の打診が伊勢丹からきていた。東京・青山に売り場を用意してくれるという。私にとっては魅力的な提案だった。売り込みにかける伊勢丹の熱意も感じた。
「高島屋とは婦人服のデザイナーとして契約しているのであり、子供服のデザイナーとしては契約していない」ーー。
私はこう言い張ることにした。これは、ほとんど"こじつけ"に近い屁理屈である。この抜け駆け計画は、まもなく高島屋の経営陣の耳に入る。すぐに私は本社から呼び出しを受けた。
役員室に入ると、いつも世話になっている取締役の仲原利男さんが顔を真っ赤にして立っていた。


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単語

抜け駆け ぬけがけ
プランタン
伺いを立ててみる
縫い代 ぬいしろ
目からウロコが落ちる
まずまず
売れ行き うれゆき
縫製 ほうせい
品番 しなばん
ジレンマ
こじつけ

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