2009年12月21日星期一

愛情に包まれた英生活 7歳で帰国、成蹊学園に入学

幼少期
======
by 槇原稔

ロンドンで生まれた私は家族の愛情に包まれ、穏やかな幼少期を送った。クリスマスや誕生日には友達を家に招き、パーティーを開いてもらった。夏休みは一家で田舎で過ごす習慣だった。雑木林にジュシマツの巣があり、卵を見つけたときは、大興奮して父母に報告した。
ロンドンで忘れられないのは、私の面倒を見てくれたスコットランド出身のミス・グラントという住み込みのナニー(養育係り)だ。後に青年時代に米国に留学したとき、周囲のアメリカ人から「イギリス風の英国だね」とよく言われた。「小さいころ、ミス・グラントと喋っていたおかげだろう」と思い込んでいたのだが、これが全くの間違いと判明する。
成人した後にエジンバラに住んでいた彼女を訪ねると、スコットランドなまりが強く、聞き取るのに苦労した。英国風のアクセントがどこで身についたのか、自分でもいまだに謎のままだ。
家には三菱商事のロンドン支店に勤めていた父の仕事関係の来客が多く、母はそちらに忙殺された。が、私の教育には熱心で、日本語の先生は母だった。
小学校に入学する直前には「水泳だけはできたほうがいい」ということになって、腹の下に紐をかけて、プールの中をぐいぐい引っ張られた記憶がある。今から思うと珍妙な訓練だったが、おかげで泳ぎを覚えた。ちなみに母はそれまでかなづちだったが、私に教えるために自分でまず水泳をマスターしたそうだ。
日本に帰国したのは1937年、7歳のときだ。米大陸経由で横浜に着いた、船員たちに良く遊んでもらったこと、ニューヨークで同地の三菱商事の支店長の歓迎を受けたことなどが思い出される。
思えば7歳までロンドンにいたのは僥倖だった。5歳までに帰国した人には、まるっきり英国を忘れてしまった人が多いが、私はそうはならなかった。英語という言葉が、人生の大きな導き手になったのは往々詳述したい。
父はその後すぐにロンドン支店長として単身で再赴任し、私は母と二人で東京に残った。当時父から来た手紙が幾つか残っている。40年7月の手紙にはこうある。
「稔はだんだん字が上手になるし、間違いがなくなってきた。ミス・グラントにみせたら日本時でも稔の成長が分かるといっていた。Daddy(お父さん)も鼻高々さ」。そう書いた手紙の片隅には鼻のイラストがついていた。
冗談だが父の手紙をみると達筆に驚かされる。母文字は下手ではない。ところが、私は若いころから悪筆で、この履歴書の題字を書くにも苦労した。なぜ両親の達筆を受け継がなかったのか、いまでも悔まれる。
それはともかく、私も頻繁に手紙を書いた。シベリア鉄道経由で送ると船便より早くつくので、いつもシベリア経由で投函した。
帰国後入学したのは三菱グループとゆかりの深い東京・吉祥寺の成蹊学園。当時の成蹊に今までいう海外帰国子女をあつめた操洋学級というクラスがあった。すぐに日本の生活になじめ、友達もたくさんできた。幼かった私は、愉快で満ち足りた日々がいつまでも続くものと信じていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
単語

雑木林 ぞうきばやし
じゅうしまつ a chinese hawk-cuckoo
スコットランド scottland 英国、大ブリテン島北部
金槌 かなづち
珍妙 ちんみょう
僥倖 ぎょうこう
追々 おいおい
詳述 しょうじゅつ
鼻高々 はなたかだか
達筆 たっぴつ
悪筆 あくひつ
満ち足りる みちたりる

没有评论: