2009年12月14日星期一

NYで前兆、急遽帰国 奇跡の回復、早朝テニスは封印

脳梗塞
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発作の前触れがあったのはニューヨークのホテルだった。「しゃべっているときの語尾がなんだか変だよ」。有事からこう言われていた。疲れが原因かと思って、当地に駐在していた長女の家族たちと予定していたミュージカル鑑賞をキャンセルし、ホテルの部屋で休んでいたのだ。
私は上半身がふらふら出、壁に手をつかなければ歩けない状態だった。課鏡に移った自分の顔は土色でまったく血の気がなかった。現地の日本人医師に診察してもらうと、早く帰国して精密検査を受けたほうが良いという。そこで急遽、チケットを手配し、日本に帰国することにした。
「使い慣れた湯船に浸かってから、寝床でゆっくり休もう」。そう思って、自宅の風呂場から出たところで電話が鳴った。掛かり付けの病院の医師からだった。「芦田先生、ダメですよ。すぐに入院してください。危険な状態です。スタッフが待機していますから」という。そのまま緊急入院することになった。
この判断は的確だった。翌日、脳梗塞の発作が私を襲ったのだ。最初は右手の指先の痺れだった。それが手のひら、手首、腕、肩と伝わり、あっという間に右半身全体に広がった。もう助けを呼ぼうにも思うように口が動かない。「お、お、おお・・・・・・」とどもったまま私はベッドの上でもがいていた。
幸い、回診中の医師に見つかり、助かったが、もし自宅で発作が起きていたら都思うとぞっとする。「万一のこともあるので親族にも連絡を取れるように」。妻や娘には病院から内々にこんな打診があったようだ。ところが奇跡が起きた。この迅速な診療が予想以上の成果を挙げたのだ。
症状はみるみる回復し、2週間ほどで退院できるまでになった。入院中は出された食事をきちんと間食し、規則正しい生活を送り、優等生だと褒められた。「優等生だ出ずに退院できる人なんて珍しい。幸運ですよ」。婦長さんからもこう言われた。
その間、頭が下がったのは妻の友子だ。緊急治療室の硬くて小さなベンチに見に横たえ、何日も献身的に看病してくれた。おそらく満足には眠れなかったと思う。ありがたいことだと思っている。
後遺症ではないが、一つだけ影響が出た。それは、大好きなテニスを諦めなければならなかったこと。大学に行かなかった私は、体育会に所属してスポーツをバリバリ出来なかったことが心残りだった。そこで51歳になってからテニスを始めた。東京・用賀に専用のコートを2面作り、1年に200日もテニス漬けになっていたのだ。
朝6時にはコートに立ち、8時までラケットを振って汗を流す毎日。そしてシャワーを浴びて9時の会社の朝礼にでるのである。練習相手は慶応大学のテニス同好会出身の若者達。時には日本プロテニス協会の理事長でデビスカップに出場した渡辺功プロにも直接指導してもらった。「遅い青春」を取り戻そうという気持ちからだった。
テニス日記の日付は1982年元日から1998年11月29日まで、さすがに脳梗塞の発作が出て「もう潮時か」と覚悟を決めた。こうして私の「遅い青春」は静かに幕を下ろした。それは、病魔から完全に復帰できたことへのささやかな代償だったのかもしれない。



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単語

早朝 そうちょう
脳梗塞 のうこうそく
土色 つちいろ
血の気 ちのけ
湯船 ゆぶね
迅速 じんそく
婦長 ふちょう
献身的 けんしんてき
心残り こころのこり

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