2009年12月9日星期三

蒼い瞳の奥に「心の父」 アーリントン墓地、今生の別れ

中日米大使
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人との縁は不思議なものだ。マンスフィールド元駐日米国大使が1977年(昭和52年)、日本に赴任してきたときのレセプション。私は社交辞令のあいさつを済ませて早々に退席しようと思っていた。ところが大使の前に立ったとたん、その蒼い瞳の奥になんとも言えない優しい光が宿っているのを感じた。
そこで私は勇気を振り絞り、「大使、素敵なスーツをお召しですね」と話しかけてみた。すると「君もいいワイシャツを着ているじゃないか」といたずらっぽく答えてくれる。その瞬間、笑いがこぼれ、その場の空気がパッと和んだ。私の心も安らいだ。それが最初の出会いである。
なぜだか分からない。気難しいと評判の大使だったが、私とは不思議に馬があった。家族ぐるみでパーティーしたり、旅行に出かけたりするほど親密な交流が始まった。
懐かしいのは84年に芦ノ湖に一緒に家族旅行をした時の思い出だ。メンバーは大使、モーリン夫人と令嬢、そして私たち4人家族。当日はあいにくの雨でボートで湖を渡ったときには皆、びしょぬれだった。でもモーリン夫人は「大してぬれていないわ。アドベンチャーみたいで楽しい」と明るく笑い飛ばしてくれた。
その日は偶然、私の誕生日。夕食時、私のことを大使は「マイ・サン(我が息子)!」と呼んでくれた。大使とは27歳違い。小学5年で父が失った私は大使に「父の幻影」を見ていたのかもしれない。大使も一人娘だけで息子はいなかった。大使の言葉に、私は父親に抱かれているようなぬくもりを感じた。
その2年後には大磯に旅行した。驚いたのは食後。浴衣に着替えた大使はアイルランド民謡「ダニー・ポーイ」を朗々と歌いだしたのだ。「人前で歌うのは初めて」と夫人は不思議がっていた。貧しいアイルランド系移民として出生。幼くして母と死別し、軍役を重ねた末、モンタナの銅鉱山の地下坑で汗にまみれては働いていた彷徨の日々と思いでしたのだろうか。
カーター大統領に任命された大使は、次のレーガン大統領からも職にとどまるように請われ、88年まで歴代最長の11年半も日本に在任する。知日派大使として輝かしい業績を残す一方で、気さくで誠実な人柄は人々を魅了した。
2001年(平成13年)5月。私はワシントンにマンスフィールド氏を訪ねた。前年にモーリン夫人を亡くし、力を落としていると聞いたからだ。夫人が埋葬されているアーリントン国立墓地に着くと、小さな白い墓石を見つけた。私はハンカチで墓石を何度もぬぐった。様々な思い出がこみ上げてきて、私は子供のように泣きじゃくった。
帰りの車中。私と元大使は固く手を握り合ったままだった。もはや言葉はいらなかった。元大使の表情は柔和になり、聖者のようだった。私たちは抱擁を交わして別れた。元大使はいつまでも私の姿を見送ってくれた。もうこれが、今生の別れだと知っているかのように・・・・・・
その年の10月。元大使は夫人の後を追うように98歳で亡くなった。父の記憶が薄い私によって、マンスフィールド氏は国や人種や言葉を超えた「心の父」だった。今でも「ダニー・ボーイ」のあの美しい調べを聞くと、透き通るような蒼い瞳と穏やかな笑顔が懐かしくよみがえってくる。


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単語

今生 こんじょう
宿る やどる
馬がある
びしょぬれ
幻影 げんえい
大磯 おおいそ
銅鉱 どうこう
請う こう
埋葬 まいそう
墓石 ぼせき
柔和 にゅうわ
聖者 せいじゃ
抱擁 ほうよう
透き通る すきとおる

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