2009年12月5日星期六

「ただの打ち上げ花火」 商売に結びつかず5回で撤退

パリコレ
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パリ・シャンゼリゼ通りにほど近い「ホテル・エ・シャボー」の会場は拍手と歓声に包まれていた。ステージ上では絞り染めの生地や帯留めを取り入れたドレスなどをモデルがまとい、華麗に歩いている。1977年(昭和52年)春。私は憧れのパリコレに始めて参加した。
評判は上々だった。フィガロが一面で「日本の皇室から飛び出してきたデザイナー」と報じてくれた。赤い縮緬の布に馬の絵や家紋が描かれた東洋風のドレスにも関心が集まった。ショーには約700人が集まり、私は華々しいデビューを飾ることが出来た。
だが、どうしても素直には喜べなかった。いくらメディアで話題になっても、具体的なビジネスに繋がらないからだ。ショーは年2回。一回あたり会場日、人件費、渡航費、材料費などを含めると1億円単位の出費になる。「でも、これではただの打ち上げ花火じゃないか・・・・・・」。むなしさだけが心に残った。
欧米メディアの報道ふりも気になった。日本人だと、なぜか東洋的な要素を求めてくるのだ。最初は"受け"を狙って和風の要素もショーに取り入れたが、実際の顧客はそんなものを求めていなかった。日本から輸出すると、関税が予想以上に高いことも初めて知った。パリコレに挑戦した私の目の前には様々な壁が立ちはだかった。
70年、高田賢三さんがパリコレで華々しくデビューして以来、日本人デザイナーが世界から注目されるようになり、三宅一生さん、山本寛斎さん、鳥居ユキさん、コシノジュンコさんらが参戦した。私もこの流れに乗ったわけだが、パリコレの内実が見えてくると「地に足の着いたビジネス」につなげるのがいかに難しいかがわかってきた。
翌年にはフランス人の気鋭プロモーター、ジャンジャック・ピカール氏に演出を依頼した。「もっと流行を取り入れましょう」という助言に従い、会場をホテルでなくナイトクラブにするなど、少し砕けた感じのショーに衣替えした。だがいくら試行錯誤を続けても、根本的な問題は解決しなかった。
「これでは自分ではなくなってしまうし、何も残らない。もう、お祭りの騒ぎは終わりだ」。通算5回のショーを終えた時点で、パリコレに出るのはやめようと決意した。奇をてらった提言重視型の服や、服作りの概念を破壊するような派手なショーだけがもてはやされるメディアの風潮にもほとほと嫌気が差していた。私の服作りの基本はあくまでもエレガンスなのだ。
再びチャンスが巡ってきたのは89年。パリの高級ブティック街フォーブル・サントノーレ34番地に直営店を開くことが出来たのだ。きっかけは1本の国際電話だった。「パリの一等地に買い得物件が売りに出ている。見ておかないと後悔するわよ」。懇意にしていたフィガロの女性記者が橋渡ししてくれた。
エルメスとイブ・サンローランに挟まれた店はだれでも欲しがる好立地。当時、日本はバブル経済の真っただ中で「ジャパンマネーの威力」などと騒がれた。だが、一流ブランドでも閉店を余儀なくされる激戦区で20年間、営業を続けている店は、今でも数えるほどしかない。
「地に足の着いたビジネスをファッションの本場、パリで体現してきたーー。私はひそかにこう自負している」


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単語

帯留め おびどめ
縮緬 ちりめん 表面に細かいしぼのある絹織物。縦糸に撚(よ)りのない生糸、横糸に強く撚りをかけた生糸を用いて平織りに製織したのち、ソーダをまぜた石鹸(せっけん)液で煮沸して縮ませ、精練したもの。
華々しい はなばなしい
立ちはだかる たちはだかる 手足を広げて、行く手をさえぎるように立つ。
三宅一生 みやけいっせい
山本寛斎 やまもとかんさい
内実 ないじつ
気鋭 きえい
砕ける くだける
衣替え ころもがえ
奇を衒う きをてらう
持て囃す もてはやす 口々に話題にしてさわぐ。ほめそやす。 
風潮 ふうちょう
嫌気が差す いやきがさす
エレガンス elegance 上品な美しさ。優雅。気品。典雅
懇意 こんい
真っ只中 まっただなか
密かに ひろかに

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