2009年12月8日星期二

無名時代の10年 助手に トンカツ弁当が好物の親日家

ラクロア
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世界的なファッションデザイナー、クリスチャン・ラクロア氏がまだ無名だったころ、東京の私の会社でアシスタントデザイナーとして武者修行していたことがある。年2回来日し、服のデザインの一部を手伝ってもらっていた。パリの香りや流行を取り入れるのが目的だった。
であったのは1977年(昭和52年)に私がパリコレで開いたショー。気鋭のプロモカール氏の助手としてショー会場のベンチにちょこんと腰掛けていたのがラクロア氏だった。緑、黄、赤の派手なチェックのズボンをはいていたので「何だか、伊勢丹の買い物袋みたいだな」と思ったのが強く印象に残っている。
「彼はすばらしいデザイン画を描く。雇ったら必ず役に立つ」。ピカール氏の強力な推薦で我が社のアシスタントデザイナーになった。試しにデザイン画を描かせてみると、粗削りだが確かに光るものがある。結局、ラクロア氏が独立する87年までの10年間、仕事を手伝ってもらった。
こうしたラクロア氏のデザイン画を商品に落とし込むのが、社内で企画や生産を指揮する私の妻の仕事だった。生地を使って実際に商品をつくる過程を体験できたのは彼にとってよい経験になったに違いない。我々も作品のイメージを膨らますのに、彼がもたらす豊かな創造性やパリのトレンドが役に立った。
「この生地で服を作りたいけどいいですか」
「ダメダメ。この生地は少し高いから、まずこっちの生地で作ってみましょう」
アトリエではデザイン画をトアール(白い木綿の布地)で立体化した見本を前に、ラクロア氏と妻が素直に議論しながら作品を仕上げていく。創造性を認めるクリエーターと、冷静な目で採算を見極める経営との激しい鬩ぎ合いだ。ラクロア氏は、いつしか妻のことを「日本の母」と呼ぶようになっていた。
不思議だったのはラクロア氏とピカール氏が来日した際、必ずトンカツ弁当を楽しみにしていたこと。2人とも仕出屋から届いた弁当に、ウスターソースをジャブジャブかけて「おいしいな、おいしいな」と満足そうに食べていた。大好物だったようだ。来日のたびにハシの使い方も上達した。2人の日本びいきは今でも変わらない。
ラクロア氏は物静かだが、南仏プロバンスの出身らしい煮え滾るような情熱と野心を胸に秘めた若きデザイナーの卵だった。ただ仕事のパートナーである妻とは違い、デザイナーである私に対しては一定の距離を保っていた。いわばクリエーター同士の不可侵領域のようなものだ。そんな関係が10年間続く。
ラクロア氏が自分のブランドを立ち上げ、我が社との契約を終えることになった最後の日。我々は送別会を開いた。「実はボクは東京で、生まれて初めてスイス製の高級生地や刺繍を使って服を作ったんです。芦田夫妻から受けた恩は決して忘れません」。ラクロア氏は私たちにこう挨拶してくれた。
ラクロア氏は名声を得た後も、以前と変わらない態度で接してくれる。世界的なデザイナーの無名時代を支えることが出来たのは無上の喜びだ。ラクロア氏はかけがえのない友人であり、いつも心地よい刺激を与えてくる生涯のライバルでもある。


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単語


無名 むめい
親日家 しんにちか
武者 むしゃ
修行 しゅぎょう
荒削り あらけずり
布地 ぬのじ
採算 さいさん
仕出屋 しだしや
物静か ものしずか
秘める ひめる
かけがえ
心地 ここち

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