2009年12月14日星期一

「お古」育ち次女が跡取り ともに留学、語学力が財産に

2人の娘
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「ねえ、見て!これ凄いのよ。お姉様のお古なの」。次女の多恵は少女時代、「お古」が素晴らしい物だと信じ込んでいたようだ。
長女の有子には、まるで着せ替え人形のように欧州から買い付けてきた子供服を着せて楽しんでいたので、その反動から長女はファッションにまったく興味を示さない子になってしまった。
逆に、毛玉だらけのセーターなど姉の「お古」を着せて育てた次女の方が、ファッションに関心を持って私の後継デザイナーになるのだから、人生とは分からないものだ。次女は小さいころから絵が大好きで、布とハサミで器用に人形を作って遊んでいた。「私、将来デザイナーになるわ」と自分から言い出したのは小学生の時だった。
娘達を若いうちに留学に出すーー。私は昔からこう決めていた。一つには国際感覚を持っていたほうが仕事のチャンスに恵まれるという狙いから。もう一つは私自身が幼少時から語学で苦労し、ずっと劣等感を味わってきたからだ。特にデザイナーを目指していた次女には、英語のほかフランス語も話せるようになって欲しいと思い、スイスのレマン湖のほとりにある寄宿舎付きの高校に留学させた。
米国に留学した長女の方はすぐに溶け込めたが、次女は大変だったようだ。欧州の裕福な子女が多いこの学校では3、4カ国語話せるのが当たり前。だが次女はフランス語はもちろん英語でさえ満足に通じない。入学してから1年ほどはクラスでも孤立しがちで、国際電話で話す声も心もなしか元気がなかった。
留学した年のクリスマス休暇。私はパリ出張のついでにスイスの高校に立ち寄ってみた。次女が小鳥のようにびくびくしながら学生生活を送っているのを見て、私は胸を痛めた。その夜、一緒に過ごしたホテルで娘は私と手をつないで寝た。よほど心細かったのだろう。翌日、朝日にか火薬琥珀色のアルプス連峰を眺めながら、私は後ろ髪を引かれる思い出日本に帰国した。
「パパ。私、運動会で1等になったのよ。リレーの選手にも選ばれたの」。弾むような声が国際電話から響いたのは年が明けて春になったころだ。運動神経はもともと良かったが、170センチ以上の大柄な生徒もいる中で、小柄な次女が運動会で大活躍したらしい。それがきっかけで学校にもうまく溶け込めたという報告を聞くと、私はホッと胸を撫で下ろした。
身分不相応かなと思いつつも、次女を送り出したスイスの名門校。仕送りも大変だったが、娘達の奮闘が、私にどれだけ力を与えてくれたことか。次女は高校卒業後、米国の美術大学に進み、今では英語もフランス語も自在に話せる。通訳がいないと外国では仕事が出来ない私にとっては、うらやましい限りだ。娘たちに残すことができた無形な財産だと思っている。
その後、長女は全日本空輸に勤める宮伸介君と、次女は山東昭子・参院副議長の甥で旧日本興業銀行に勤めていた山東英樹君とめでたく結婚した。山東君は銀行を辞め、1997年(平成9年)に私の会社に入った。おかげで私の重荷はだいぶ軽くなった。
今では孫が合計4人。昔から私が懸命に追い求めてきた暖かい言えと家族が、ようやく手に入ったとしみじみと実感している。


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単語

多恵 たえ
有子 ゆうこ
毛玉 けだま
幼少 ようしょう
寄宿舎 きしゅくしゃ
裕福 ゆうふく
連峰 れんぽう
奮闘 ふんとう
宮伸介 みやしんすけ
山東英樹 さんとうひでき
重荷 おもに

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