2009年12月20日星期日

秀才の父 苦学し大学へ 文学好き母は芥川と面識

両親
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by 槇原 稔

私の父、槇原覚は1894年に鳥取との県境に近い岡山の神代村という農村に生まれた。家は小作農で、経済的には貧しかったが、勉強は抜群できたらしい。こんな逸話がある。小学校の先生が教室で質問すると、窓の外から答えが返ってきた。驚いて外を見ると、学校に上がる前に小さな子ともがいて、それが父であった。校庭で遊ぶついでに先生の話を聞いて、すらすら内容を理解したという。
そんな父が親戚を頼って上京したのは14歳のときだった。最初は使い走りや子守を経て、一橋大学に進んだ。貧しい出身の父がこの時代に最高学府まで進学できたのは、一つの縁に恵まれたからだ。
三菱の創業者として有名な岩崎弥太郎には久弥という長男がおり、久弥には3人の息子がいた。久弥はこの3人を手元におかず、本郷龍岡町に寮を作り、教育者を迎えて、同年代の青年達を学友として同居させた。
これは息子達の教育のためであったが、同時に将来の三菱の幹部の養成を考えていたのかもしれない。様々な大学から学生が集まった。父もその一人に選ばれ、援助を受けることになったのだ。父と岩崎家にどんな接点があったのか今では知る由もないが、地方出身の苦学生にとって、これはたいへん幸運なことだった。
お金の苦労から解放された父はテニスに熱中し、いつも浅黒く日焼けしていたという。学業でも優秀な成績を収めた。卒業式で送られたという金時計は、残念ながらもう残っていないが・・・・・・。
卒業後は当然のように三菱商事の門をたたき、1921年に母の治子(旧姓・秦)と結婚した。父28歳、母21歳。この2人の仲を取り持ったのが、母の兄で、三菱商事の社員だった秦豊吉である。
小作農の出身である父とは対照的に、母の実家の秦家は東京で薬商を営み、裕福な暮らしぶりだったようだ。親戚には歌舞伎役者もおり、さらに豊吉は商社務めの傍ら文化的な方面でも活躍した。
戦前にはレマルクの「西部戦線異状なし」やゲーテの「ファウスト」を翻訳し、文名を上げた。「ファウスト」についてはすでに森鴎外の訳があった。「なぜ改めて君が訳すのか」と聞かれた豊吉は、「鴎外はファウスト博士と悪魔のメフィストフェレスの関係を誤解している。その誤りを正したい」と答えだそうだ。後に当方に移籍し、日劇ダンシングチームを育てるなど演出家としての才能も発揮した。
牛込余丁町の秦家の屋敷には、豊吉の友人の芥川龍之介もときどき遊びに来た。龍之介には絵心があって、ちゃぶ台で幼い母の似顔絵を描いてくれたという。そんな影響もあってか、母は若いころは文学志望だったようだ。「水島京子」の筆名で懸賞小説に応募し、自作の小説が雑誌に載ったことも何度かあった。
私が生まれたのは、結婚から9年がたち、父母がロンドンに駐在していた1930年のことだ。母は一度流産しており、両親とも子供は諦めていたそうだ。妊娠がわかって、父は大量のミネラルウオーターを取り寄せた。生まれてくる子供を大事に育てるために万全を期したのだ。

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単語

秀才 しゅうさい
槇原覚 まきはらさとる
神代 かみよ
逸話 いつわ
使い走り
子守 こもり
一橋大学 ひとつばしだいがく
岩崎弥太郎 いわさきやたろう
岩崎久弥 いわさきひさや
本郷龍岡町 ほんごうりゅうおかまち
浅黒い あさぐろい
金時計 きんどけい
秦豊吉 はたとよきち
傍ら かたわら
森鴎外 もりおうがい
日劇 にちげき
牛込余丁町 うしごめよちょうまち
芥川龍之介 あくたがわりゅうのすけ
絵心 えごころ
ちゃぶ台 ちゃぶだい
筆名 ひつめい
流産 りゅうざん

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