2009年12月19日星期六

人生の半分は海外生活 心はいつも日本とともに

すべて自然体
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by 槇原稔

1930年(昭和5年)生まれの私はいわゆる「昭和1けた世代」に属するが、同じ世代の多くの日本人とはかなり異なる経験を歩んできた。父の仕事の関係でロンドンで生まれた。戦後は縁があって米国に留学し、ニューハンプシャー州にあるセント・ポールズ高校を経て、ハーバード大学に学んだ。
帰国後は父の勤め先であった三菱商事から誘いがあり、入社を決めた。高度成長時代をビジネスマンとして過ごしたが、いわゆる「モーレツ社員」ではなく、社外の人たちとの付き合いも大切にしてきた。92年の社長昇格は、私にとっても、おそらく周囲にとっても、誠に意外なことであった。
私の社長人事が発表されたとき、若いころから読み親しんできたニューヨーク・タイムズ紙は「同世代の青年達が東京大学の入試に苦労しているとき、マキハラはニューイングランドの名門高に通っていた」「三菱の同僚が本社で出世の階段を登っているときに、マキハラはロンドンやワシントンに駐在し、20年以上を過ごした」と書いた。
海外メディアから見ても「異邦人」「エイリアン」と呼ばれた私のような経歴の人間がいわゆる日本の代表的企業のトップに座るのは驚き以外の何ものでもなかったのだろう。
私自身、自分の人生がなぜこんな軌跡をたどったのかはよく分からない。若くして亡くなった父や一人息子の私に愛情を注いでくれた母の有形無形の影響は大きかった。社会に出てからは友人や上司に恵まれ、かつ運が良かったことは確かだ。
若いころから無理はせず、自然体で生きてきた。ポストやその他のものをめぐって、他人と争うこともなかった。「入学試験や入社試験の類は一度設けたことがない」というと、びっくりする人が多い。
私が7歳から19歳まで過ごした東京・吉祥寺の成蹊学園の校名は「桃李ものいわざれども、下おのづから蹊を成す」に由来する。自分に「桃李」ほどの魅力があるとは思えないが、誠実に努力すれば周囲は認めてくれる、というのがとりあえずの結論である。
今年夏、英国出張のおり幼少期を過ごしたロンドン近郊のハムステッドという町を再訪すると、父母とともに暮らしたアパートメントが今もあった。外壁はきれいに塗り直されているが、玄関や窓の形は当時のまま。感慨にふけっていると、私と同年配の紳士が通りがかり「何をしているのか」と聞く。「実は70年前にここに住んでいた」というと、「それは奇遇。私もそのころからの住人だ」
誘われるままに彼の部屋を訪ねると、窓から見える風景は往時とのほとんど変わっていない。近所の友達を集めて開いた6歳の誕生日パーティーが思い出された。
考えてみると、このアパートを振り出しに人生の半分近くを英国と米国で過ごしたことになる。だが、日本の内と外を往来しながらも、心はつねに日本とともにあった。ビジネスの前線を退いた今、戦前から続く東洋学の研究拠点、東洋文庫の理事長を務めているのも何かの縁だろう。「こんな人生も面白そうだ」と、読者のかたがたに思って頂ければ幸いである。


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単語

槇原稔 まきはらみのる
外壁 がいへき
成蹊学園 せいけいがくえん
桃李もの言わざれども、下おのづから蹊を成す とうりものいわざれども、したおのづからみちをなす
往時 おうじ
退く しりぞく

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