2009年11月9日星期一

中学まで8キロ草鞋通学 英語分からず2学年遅れる

山口へ疎開
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悲報が届いたのは1944年(昭和19年)暮れのことだった。自ら望んで出征した長兄が戦死したのだ。38歳だった。フィリピン・レイテ島で戦死すー・・・」こんな紙切れが一枚届いただけ。母はその前日、満開の桜のしたで、長兄が最後の別れを告げにきた夢を見たという。虫の知らせだったのだろうか。
父が病死し、長兄も戦争で失った母はうなだれたまま動かなかった。もう悲しむ気力もうせ、涙尽き果てたという感じだった。当時の日本では珍しくもない出来事だったかもしれない。太平洋戦争は終盤に近付き、日本人全員が巨大な悲劇を背負い込んだような状態だった。
そんなころ、三兄にも召集令状が届いた。「長兄に続いて三兄も命を落とすのか・・・」。こんな不安が頭を掠めた。出征を見送るため、家族で東京駅まで出向くと、駅の構内は重苦しい非状な空気に包まれていた。ホームは召集兵を見送る多数の親族や知人たちで込み合い、肩がぶつかり合うほどだった。
「ばんざーい。お国のために頑張ってくるんだぞ」。勇ましく軍歌を歌うものもいれば、涙ながらに千人針を手渡すものもいる。私や母、兄姉らは沈うつな表情で列車の窓越しに三兄と向かい合った。私は何と声をかけたらよいやら適当な言葉が見つからず、黙ってうつむいていた。そのとき、構内のスピーカーからアナウンスの声が響いた。
「厚生省のアシダさん、アシダさーん、至急、駅長室までおいでください」。三兄は慌てて列車を降り、駅長室に向かった。どんな事情があったかはよく分からない。とにかく召集は解除された。「出征は取りやめになったよ」。三兄は拍子抜けしたようにつぶやいた。母の顔には安堵の色が浮かんだ。私もホッと胸をなでおろした。
太平洋戦争は日増しに敗戦の色を濃くしていた。学校では配属軍人による洗練が続き、竹やり訓練もやらされた。東京上空に敵機が飛来するようになり、灯火管制も厳しくなった。そのころ、長兄の家族と暮らしていた練馬の自宅の庭でも形ばかりの防空壕を掘り始めていた。
「戦況が悪化してきた。東京にいては危険だ」。召集を免れた三兄は、私達に直ちに疎開するように促した。行き先は長姉が嫁いだ山口県田布施の実家。手早く準備を済ませ、長兄の家族と別れて、列車で山口に向かった。車内は地方の身寄りを頼り、疎開する人の波であふれていた。窓から見える景色はすでに灰色一色だった。
疎開先はわらぶきの家屋。風呂はなく、寝床にいればノミに食われっぱなし。自転車の使用は禁じられ、私は自宅から学校まで2里(約8キロ)の道を毎日歩き続けた。革靴も禁止され、ズック、やがて草鞋に履き替えた。慣れぬ鼻緒が足の指の股をこすり、血豆が何度もつぶれた。
独協中学でドイツ語を学んでいた私は柳井中学に編入したが、英語の授業について行けず、さらに進級が1年遅れてしまった。当然、学業には身が入らない。つまらなそうな顔をしていると学校でいじめを受けた。山口の疎開生活には、あまりよい思い出がない。
あれだけ好きだったファッションやデザイン画もいつしか記憶から消えうせていた。

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