2009年11月18日星期三

ヒット連発、銀座で評判 雑誌掲載、社内でやっかみも

人気デザイナー
=============

1953年(昭和28年)、初めて就職した「ミクラ」は、後にパリで活躍する高田賢三さんも在籍する既製服メーカーである。ただ当時はデザイナーが7,8人程度で、畳の上で仕事をするような小さな会社だった。
「よし、これなら売れるぞ。すぐに量産にかかれ!」
「あ、これはダメだな。残念ながらボツ!」
毎朝、会議室ではこんな言葉が威勢良く飛び交っていた。ミクラでは、まずデザイナーが見本をつくって会議室で発表し、営業マンが皆の前で本格生産に入るかどうかを判断するやり方だった。デザイナーの実力がそのまま問われる弱肉強食の世界である。
だが、私の服は良く売れた。最初から圧倒的な人気を博したのだ。新人にもかかわらず、あれよあれよという間にデザイナ部長に昇格した。幼いころから兄嫁たちの舶来の洋服やファッション雑誌をみて育ったことや、中原淳一先生に直接鍛えられてきたことのおかげだろう。
私の作品はすぐに評判を呼び、女性誌「婦人画報」などのメディアに大きく取り上げられるようになった。自分の作品が、有名デザイナーの田中千代さんと並んで掲載された時には、飛び上がらんばかりに喜んだ。若い私は次第に有頂天になっていた。
すると、社内から私を糾弾する声が上がり始めた。「会社の生地で服を作り、雑誌を通じて売名行為をしている」というのだ。まったくの濡れ衣だった。おそらく、私へのやっかみもあったのだろう。そんな時、「ひつじや」という別の会社のオーナーが私をスカウトしてくれた。
銀座の生地専門店で、8丁目の大きなウインドーに斬新な服を並べることで知られていた。「よし、やってやるぞ」。私は奮い立った。ここでも私の服は飛ぶように売れた。つくればつくっただけ売れるような状態だった。
当時、街角には高峰秀子さんや笠置シヅ子さんらの弾むような歌声が響いていた。
あの娘可愛いや カンカン娘 赤いブラウス サンダルはいて 誰を持つやら 銀座の街角 時計ながめて そわそわにやにや これが銀座の カンカン娘 ・・・・・・
銀座は流行の発信地だった。夕方になると、着飾った紳士淑女が派手なオープンカーで乗り付け、最先端のおしゃれを競い合う。リボンの付いた水玉模様のワンピース、パラシュートのようなサテン地のスカート、チェック柄のツイードのジャケット・・・・・・。人々は明るくモダンな洋服に夢中になっていた。
そんな銀座で私は評判の若手デザイナーになった。そうなると自然に金遣いも荒くなる。札束をポケットに突っ込んでは、友人を引き連れ、繁華街を練り歩くような日々が続いた。
ただ、どんなに給料が増えても、出るほうもドンドン増えるからカネは全くたまらない。楽天的な性格はこのころから変わらないようだ。
世の中にはまだ戦争の傷跡も残っていたが、人々は廃墟の中から逞しく立ち上がり、新たな価値観やライフスタイルを見つけ出そうと躍起になっていた。そんな人々の心の渇きを癒すのがファッションや娯楽だった。私はそんな心意気に燃えていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
単語

飛び交う とびかう
ボツ
博す はくす
舶来 はくらい
濡れ衣 ぬれぎぬ
奮い立つ ふるいたつ
飛び上がらんばかりに喜んだ
有頂天 うちょうてん
糾弾 きゅうだん
高峰秀子 たかみねひでこ
笠置シヅ子 たさぎしづこ
着飾る きかざる
紳士淑女 しんししゅくじょ
競い合う きそいあう
廃墟 はいきょ
逞しい たくましい
躍起 やっき

没有评论: