2009年11月16日星期一

師の指導プロの技見た 金はないけど夢へと走る

見習い時代
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破れた窓ガラスからすき間風が吹き込んできた。ささくれ立った畳が蛍光灯の明かりに照らされている。1949年(昭和24年)、高校3年の冬。私は急死した三兄の家を出て、伯父が東京・目白で経営していた種苗会社の社員寮で一人暮らしを始めた。「体に気をつけてね。困ったらすぐに知らせるのよ」。母は私を不憫に思ったのだろう。部屋には不釣合いなくらいの立派な金襴緞子の布団をお持たせてくれた。毎晩、それで眠ると、母の愛情にくるまれているような気がして、体も心も芯から温かかった。
売れっ子画家、中原淳一先生からの個人指導を許された私は大学進学をやめ、デザイン画を描き続けた。そして、毎日のようにアトリエに電話をかけた。だが先生は仕事に忙殺されており、なかなか時間がもらえない。よくても週1回程度。2、3週間会えないこともザラだった。
ただ、限られた先生の指導は中身が濃かった。私が作品を見せると「このポーズは動きに乏しいな」「右足の重心のかけ方がおかしいよ」などとつぶやきながら、鉛筆でササッと手を入れる。するとどうだろう。モデルの手足が動き出し、洋服のデザインがみるみる輝き始めたのだ。一流のプロの技に脱帽した。
先生は白い紙の上にペンを走らせ、フリーハンドで直線や曲線を描く。まるで製図道具のような正確さだ。絵だけではない。雑誌の紙面構成から衣装、さらにモデルや掲載する文学作品、作家の選択まですべて独りでこなした。その縦横無尽の仕事ぶりに私は舌を巻いた。
初めて足を踏み入れたアトリエにも興味津々だった。サロンでは出版社の編集者が数人寝泊りし、絵や原稿が仕上がるの待ち構えていた。人気女優、モデルらも打ち合わせや写真撮影で頻繁に出入りしていた。「これが時代の流行を生み出す舞台裏なのか」。私は目を見張った。
高校を卒業すると、東京・銀座の専門学校にも通った。デッサンを勉強するためだ。女性の裸体を描くのある。なにしろ大学に入っていないし、先生にも頻繁にはあえないから、時間だけは十分に会った。骨格や筋肉の動き、体のバランスの取り方など基礎知識を夢中で学んだ。
見習い時代。まだ仕事はしていないので、贅沢をするカネはない。明日のパンを買うカネすらないことも珍しくなかった。冬になれば雪が靴の中に入り込み、寒さで足先が凍りついた。寒空を見上げては「ああ、新しいゴム靴が買えたらなあ」とどれほど思っことか。ただ夢にむかって走っているという実感だけはあった。だから、決してつらくはなかった。
転機は2年ほどでやってくる。先生の夫人で宝塚歌劇団の元スター、葦原邦子さんから突然、電話が入ったのだ。「主人があなたのことをとても気に入っているの。今後、仕事を手伝ってもらえないかしら」。内弟子にならないかという打診である。給与も出るという。願ってもないチャンスが舞い込んできた。
「ありがとうございます。こちらこそ、宜しくお願いします」。反射的に頭を下げていた。目の前に新しい世界が開けてゆくのを感じた。私は中原淳一先生の正式スタッフとして採用されて、アトリエに毎日、通うことになった。

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