2009年11月4日星期三

芦田淳 末っ子 父の愛情一身に 家風にいびつな"学歴意識"も

生家は韓国
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私の生まれ故郷は韓国南西部にある全羅北道の古都、全州である。若き外科医だった父、定男は長男にもかかわらず、京都・丹後地方の実家を離れて、日本統治下の朝鮮半島に渡った。京都の実家は11代、300年以上も続いた旧家だから、かなり思い切った決断だったに違いない。
おそらく古くさい因習や風土を嫌って、「新天地で一旗揚げよう」という野心にかき立てられたのだろう。そんな進取の気風にあふれる父は全州で一、二を争う病院の経営者となる。私が生まれた1930年(昭和5年)ころは生活も安定し、羽振りもかなり良かったようだ。
洋館を併設した自宅の敷地は300坪(約1千平方)もあり、いつも大勢の客が出入りしていた。祝い事があると芸者衆を呼んでは大広間でどんちゃん騒ぎ。行楽シーズンには全州八景に数えられる徳津湖畔に屋形船をこぎだし、湖面を埋め尽くすハスの花がポンッと音を鳴らして咲く様子をよく見物したという。
私には兄が4人、姉が3人いた。8人兄弟の末っ子である。父は56歳で授かった孫のような私を、たいそうかわいがった。宴会でお菓子をもらって帰れば、真夜中でも起こされ、食べさせられた。私が「絵を描きたい」とダダをこねれば、すぐに文具屋から大量の画用紙が届けられた。まるで「砂糖菓子」のように、私は甘やかされて育った。
とはいえ学校では勉強も運動もよくできる優等生だった。成績はトップ。足も速く、運動会ではいつもリレーの選手。いわばクラスのリーダー格で、大勢の友達を引き連れては、日が暮れるまで自宅や近所の空き地で野球やドッジボール、テニス、戦争ごっこに興じていたものだ。
一見、平穏そうな芦田家には、実はいびつな"学歴意識"があった。父は「帝大以外は大学ではない」が持論で、息子達を帝大に送り出し、学問をさせることが夢だった。その期待に応えるように、24歳上の長兄は六高から九州帝大に、19歳上の三兄は五高から東京帝大に進学。2歳上の四兄も後に四高から東大へ進み、絵に描いたようなエリートコースをたどる。
だが帝大受験に失敗し早稲田大学に進学した次兄だけは露骨に冷遇されていた。夏休みに日本から船で帰省するのに、長兄や三兄は一等船室だったが、次兄には三等船室があてがわれた。次兄はその後、養子に出てしまう。そんな厳しい家風に逆って、やがて私は、大学も出ずにファッションデザイナーという異端の道を歩き始める。
それがどれほどの波風を立て、私の心を苦しめることになるのかーー。当時の私にはまだ知るよしもない。
忘れられない光景がある。あれは、たしか5歳か6歳のころ。自宅の風呂場で私は父と母に体を洗ってもらっていた。すると、ふと父がこんな言葉をつぶやいた。「母さん。この子が大きくなるのを、わしらはいつまで見てやることができるのだろうか・・・・・・」 。年を取ってから生まれた末っ子の将来を案じたのだろう。
薄暗い天井を見上げながら、私は子供心にも「こんな楽しい生活は長くは続かないだろう」とぼんやり考えていた。予感は見事に的中する。思い起こせば、あのころが芦田家の絶頂期だった。一家をどん底に突き落とす悲劇は意外なほど速足でやって来る。

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