2009年11月5日星期四

病院譲り一家で内地へ 楽しかった生活、音立てて崩壊

父の死
======

その日を私は鮮明に覚えている。1941年(昭和16年)7月10日。一家の大黒柱だった父が結核で急逝したのだ。大広間に集まった母や姉、兄らはすっかりやせ細った父の亡骸にすがり付き、オイオイと泣き崩れた。
出棺前に撮影したセピア色の写真が残っている。中央に横たわっているのが父の棺。左手の白装束は母と3人の姉。右手の男性陣は長兄を除く兄弟4人。後列右端が小学5年の私である。改めて見返すと、家族の悲痛な叫び声が聞こえてくるようで、今でも胸が詰まる。
その日を境に、すべてが狂い始めた。父の死により、韓国・全州で一、二を争ってきた病院の経営は困難になった。東京帝大医学部を出て、厚生省に勤務していた三兄には病院を継ぐ意思がなかった。九州帝大を出て、東京府庁の役人になっていた長兄はニューヨークの日本文化会館に赴任しており、すぐには帰国できなかった。
母はやむを得ず、父がゼロから築き上げた病院や屋敷の一切を手放し、日本に引き揚げることを決めた。あんなに楽しかった生活や家が音を立てて崩れてゆく。「この先、どうしたらよいものか」。運命の荒波に翻弄された母はみるみるやつれ、床に伏せりがちになった。
ようやく秋になり、引き揚げの準備が整った。すでに独立している兄や姉を除いた母、三姉、四兄、私の計4人が日本へ旅たつことになった。この年の暮れ、日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が勃発する。戦渦に巻き込まれずに家財をすべて日本に運び込み、家族も無事に引き揚げることができたのだから、その意味では幸運だったといえるのかもしれない。
出発の朝。全州の駅のホームは釜山に向かう列車の見送り人で込み合っていた。野球や戦争ごっこで遊んだ級友の懐かしい顔も見える。哀愁を帯びた汽笛が鳴り響き、列車がゆっくりとホームから離れ始めた。私は車窓を開き放って、友人たちに思いっ切り手を振った。
「さよなら。お達者で」
「うん、向こうについたら必ず手紙を書くからな」
胸の奥から悲しさがこみ上げてきて、目の前が涙でかすんだ。私はとっさにかぶっていた学帽を友人に投げた。「僕のことを忘れないでくれよお」。学帽が小さな放物線を描きながら後景に吸い込まれていく。見送り人の姿がゴマ粒のようになるまで、私は手を振り続けた。
行き先は厚生省から石川県庁に派遣されていた三兄が住む金沢だった。4人を迎えるために一軒家を借り上げてくれたという。我々は列車で釜山に向かい、それから下関行きの連絡船に乗り換えた。途中、初めて目にした日本の美しさに私は息をのんだ。荒々しい玄界灘の波間に、薄緑の海岸線がきらめいている。
「いよいよ到着よ。ほら、あそこに見えるのが本州」。母が耳元でささやくと、私は甲板から身を乗り出して、じっと目を凝らした。「ああ神様。これからどんな運命がこようと、どうか私たちをお守りください」。舳先のむこうにくっきりと浮かぶ下関港を眺めながら、私は心の中で静かに祈りをささげた。
41年秋。早くも冬の訪れを告げる潮風が、青黒い海面を這うように吹き付けていた。

没有评论: