2009年11月24日星期二

高級既製服を世に問う 数十億円の仕事、分刻みで働く

高島屋
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1960年(昭和35年)日米安保条約の改定で世の中は騒然とし、池田勇人内閣が「所得倍増計画」を声高に叫んでいた。「もはや戦後ではない」と経済白書がうたったのが4年前のことだ。高度成長、大量消費時代を迎え、日本のファッション界にも改革の風が吹き込んでいた。この年、私の人生で重要な出来ことが2つ重なった。1つは後輩デザイナーだった富田友子との結婚。もう1つは、高島屋とデザイナー契約を結んだことだ。そのころの百貨店は、一般にはまだ耳慣れない「プレタポルテ(高級既製服)」の分野を強化しようとしている時期だった。
それまで、洋服は布地を買って自分で作るか、洋装店で仕立てるかしかなかった。デザイナーと言えば、流行服の写真が載ったスタイルブックをパラパラとめくりながら、「袖はこのディオール風で、襟はこのサンローラン風で仕上げましょうか」などと欧米デザイナーの作品をコピーするのが関の山だった。
「だが、これからはデザイナーの時代になる。百貨店のオリジナルを作れる人材を探せ」。こんな方針を打ち出した高島屋が目をつけたのが私だった。ジョンストン自体に高島屋にはすでに私のコーナーがあり、商品がよく売れていたからだろう。私を引き立ててくれたのは東京店の営業部長で、後に高島屋専務になる仲原利男さんだった。
勤務は1日おきの週3日制。残りは自分が抱える顧客をこなすという「二足の草鞋」状態だった。だが15年続いたこの高島時代に、今のファッションデザイナー、芦田淳が作られたといってもよい。デザインや色、生地、売り場の展示法まで一切を任され、ビジネスの基本をみっちりと叩き込まれた。
たとえば次のテーマは「ジュネス(仏語で青春)」で行こうと社内で決まる。すると私が色や素材を選び、服をデザインし、高島屋の全店で販売するのだ。数十億円規模のビジネスである。責任は重大だ。だが自分のアイデアを世に問い、その結果を肌で確認できるやりがいがあった。
出勤日は朝から深夜まで分刻みの忙しさだった。
「来シーズンはこんな商品を企画してほしい」
「どんな色をいくつ仕入れたらいいか相談したい」
婦人服、紳士服、運動着、子供服、下着、ネクタイ・・・・・・。各部門の責任者や担当者との打ち合わせが、切れ目なく入る。その間に各階の売り場を巡回し、客の反応や売れ行きにも細かく目を配った。
すっかり疲れ果てて深夜中に帰宅すると、翌日昼まで泥のように眠った。でも「オレが店を支えているんだ。陰の社長なんだ」くらいの自負心があった。合言葉は「伊勢丹や西武百貨店に負けるな」。社員が一丸となり、全社挙げて戦闘体制に入っていた。
有志による勉強会にも参加した。売り場の課長レベルと週1回、仕事が終わった後に議論する。「ファッションの未来とは」「百貨店が向かうべき方向とは」。夜遅くまで意見を激しくぶつけ合った。仲原さんはそんな様子に目を細めながら、全面的に支援してくれた。
ファッション界には新たなビジネスの地平を切り開こうという活気があふれていた。こうした渦の中から多くの男性デザイナーが生まれたのだ。私もその一人だった。


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単語

池田勇人 いけだはやと
声高 こわだか
布地 ぬのじ
捲る めくる
袖 そで
襟 えり
仲原利男 なかはらとしお
二足の草鞋 にそくのわらじ
仏語 ぶつご
分刻み ふんきざみ
売れ行き うれいき
伊勢丹 いせたん
渦 うず

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