2009年11月10日星期二

腹に響く原爆の地鳴り すし詰め帰京列車は地獄絵

終戦の混乱
==========
1945年(昭和20年)。中学生の私はいつも腹をすかせていた。疎開先の山口県田布施で楽しみだったのは通学途中、畑で盗み食いした真っ赤なトマト。熟れた実にかぶりつくと、甘酸っぱい香りが口の中に広がった。「こらぁ、なにしちょるかあ」。怒ったお百姓さんから空気銃で撃たれたこともある。
柿もよく失敬して食べた。その甘かったこと。道草は私にとっての唯一の気晴らしだった。農村地帯の田布施の食糧事情は比較的に、恵まれていた方かもしれない。家では豆や粟、ヒエが混じったおかゆやイモ、野菜などをかき込み、何とか空腹感を満たすことができた。
戦況が悪化するにつれ、学校では勤労奉仕が増えてきた。山に登っては一抱えもある丸太を綱で引っ張り、ふもとまで降ろす。田植えにもよく動員された。ヒザまで泥につかり、ヒルに血を吸われながら汗だくになって苗を植えた。稲刈りにも駆り出された。学校で授業を受けることはめっきり少なくなった。
それまで空襲が少なかった田布施にも、灯火管制が敷かれるようになった。あの恐ろしい日はそんな状況下でやってくる。8月6日、午前8時15分ーー。その瞬間、自宅の庭にいた私はメリメリと腹に響くような地鳴りを感じた。「何が起きたのだろう」。皆目、見当もつかなかった。 だが、とんでもないことが起きたことだけは理解できた。
米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが原子爆弾を広島に投下し、一瞬のうちに無数の人間の命を奪ったと知るのはしばらくたってからのことだ。田布施は広島から60キロほどの距離。その爆音が自宅の庭まで届いたという事実に背筋が凍り付いた。9日後の8月15日正午。ラジオで玉音奉送を聞き、私は日本が戦争に負けたと教えられた。
体から力が抜けて、へたへたと地面に座り込んだ。一体、何のための戦いだったのか。泥も汗も枯れ果てた。「これで戦争による生命の危険は消えた。苦しみから解放される。」それが終戦を迎えた私の偽らざる本音だった。空を見上げると、雲一つなく、澄み渡っていた。
終戦を迎えると、三兄は母と私に上京して自分たちと一緒に住むようにと勧めてくれた。私と母は山口から列車で東京に向かうことにした。そのときの車内の様子はその後、何度も夢に出てくるような地獄絵だった。車両は乗客でギュウギュウ詰め。立すいの余地もなく、トイレに立つことさえできない。車内には悪臭が立ち込めていた。
「おら、どけどけ」。そこに途中から帰還兵が荒々しく乗り込んできた。入り口から入れないと分かると、窓ガラスを次々と叩き割って、無理やり体を滑り込ませてくる。私は母の陰でブルブルと震えていた。列車がトンネルに入ると、割れた窓から機関車が吐く煙が入り込み、息もできない。乗客の顔はすすで汚れて真っ黒になった。
終戦直後、戦争の呪縛から解き放たれた日本は混迷の渦中にあった。皆が今日を行き抜くために必死だった。やっとの思い出上京した母と私は東京・久が原にある三兄の家に身を寄せた。兄嫁と子供はまだ疎開先にいた。母と三兄と私の3人の共同生活が始まった。

没有评论: