2009年11月16日星期一

義姉の和服、映画衣装に 乙羽信子さんらアトリエに集う

芸能界
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人気画家、中原淳一先生の正式スタッフになった私は毎日、張り切ってアトリエに通った。朝9時に顔を出し、夕方には帰るという勤務スタイルである。だが、いつまでたっても電話番や鉛筆削りしかさせてもらえない。私は欲求不満を募らせていた。
ある朝、アトリエに着くと、先生が浮かない顔をしている。理由を聞くと、「百万ドルのえくぼ」というキャッチコピーで売り出そうとしている新人女優、乙羽信子さんの映画衣装で悩んでいるという。令嬢役という設定だが、映画会社が用意した衣装ではどうもイメージが合わないらしかった。
「では、僕が用意しますよ。考えがあります」。私はなくなった三兄の妻の家に行き、和箪笥の中から映画の役柄に合いそうな着物や帯を4、5本を借りてきた。それを見るなり、先生は「そう、これだ」とひざを打って喜んだ。衣装問題はその場で解決。後ほど、乙羽さんからもお礼を言われた。
金沢時代、医者の娘だった兄嫁と暮らし、令嬢が実際に身に着ける着物を見てきた経験が役に立った。「仕事で貢献できた」。初めて手応えを感じた。先生との距離も急速に縮まったような気がする。そのうち、図に乗った私は、持ち前のずうずうしさを発揮するようになる。
「先生、男なのに、なぜパーマをかけてるんですか」。「底の高い靴なんか履いて、歩きにくくないですか」
よくもまあ、人気クリエーターに失礼な質問をズケズケと言えたものだ。先生もさすがに不機嫌そうな顔でこうつぶやいた。「アプレゲール(戦後派=アメリカ文化の影響を受けた若者)という言葉があるけど、君を見て、初めてその意味が分かったよ・・・・・・」
アトリエには乙羽さんのほか司葉子さん、岸恵子さん、高峰秀子さんら多くの人気女優が出入りしていた。やがて、先生は日活の看板女優となる浅丘ルリ子さんも見いだす。日本の芸能界や流行をけん引しようという活気が、アトリエにはあふれていた。
先生は三度の飯より仕事が好きだった。分野は雑誌、映画、服飾など多肢にわたり、睡眠時間はおそらく2、3時間しかなかったと思う。こんなエピソードがある。私が夕方、「失礼します」と退社し、翌朝、再びアトリエに出社してみると驚いた。先生は昨日とまったく同じ姿勢で、まだ仕事を続けているのだ。
「先生、朝食は取ったんですか。顔は洗いましたか」。あきれて尋ねると「ああ、そうか・・・・・・」などといいながらようやく腰を上げ、手水鉢でチョチョッと顔を洗う。そして5分で食事を済ませると、すぐ机に向かってしまうのだ。まるで命を削りながら仕事しているように見えた。
私は「ヴォーグ」などファッション雑誌を参考にしてデザイン画を描き、先生に指導してもらっていた。正式スタッフとはいえ、こちらが授業料を払わなければいけないような状態だった。そんな内弟子時代が2年続く。巣立ちの季節が近付いていた。
やがて先生がパリに旅立ったのを機に、私は東京・茅場町にある「ミクラ」という小さいなアパレルメーカーに就職する。デザイン画を見せると、すぐに採用通知が来た。1953年(昭和28年)。私は23歳になっていた。

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