2009年11月6日星期五

間取り図描き自分の城 兄嫁の花嫁道具に心躍らす

金沢に落ち着く
=============

引き上げ先の金沢では、厚生省から石川県庁に赴任していた三兄が待っていた。新居は切り絵のように美しい紅の格子が映える小粋な日本家屋。父の死で韓国から引き上げた母や兄姉、私の4人が暮らすには十分な広さだった。
この時期、私は結核でなくなった父の影響のせいか、肋膜炎を患い、療養が必要な状態だった。「学校を休んで家で寝ていなさい」。医学の知識がある三兄の判断で、私は半年ほど休学を命じられた。部屋の真ん中でこたつを挟み、病弱の母とのんびり寝て過ごす生活になった。
北陸の小京都、金沢の冬は情緒たっぷり。しんしんと雪が降り積もる中、私は知的で濃厚な時間を送ることができた。母と俳句を詠み合ったり、兄の書棚の文学全集を読みあさったり。大好きな夏目漱石の「坊っちゃん」、志賀直哉の「暗夜行路」に出会ったのもこのころのことだ。
翌春、地元の小学校5年に編入する。病気のために学年は1年遅れてしまった。だがうれしい出来事ともあった。三兄が見合い結婚し、東京から美しい花嫁がやってきたのだ。医者の娘という兄嫁は洗練された都会的なセンスにあふれ、家の中はぱっと明かりがともったように華やいだ。
目を見張ったのは兄嫁が持ち込んだ花嫁道具の数々。ボタンの花が描かれた赤い輪島塗の和箪笥や鏡台、机類・・・・・・。優美な気品をたたえた色彩感覚や造形美に心を打たれた。後にファッションでデザイナーの道に進む地下は、おそらくその辺りの記憶が出発点になっていると思う。
当時、私は風変わりな趣味に没頭していた。画用紙やスケッチブックに空想を膨らませながら、ひたすら家の間取りを描くのだ。見物の外観や設計ではなく、なぜか部屋の間取りに夢中になった。小さな家ではダメ。なるべく大きく豪勢な家が好きだった。すると、なぜだか心が落ち着くのである。
父の急死で、生まれ育った韓国・全州の家を手放し日本に引き揚げた私にとって、家は家族そのものだった。居間、台所、書斎、寝室・・・・・・。家の間取りには、そこで暮らす家族の息遣いや生活のにおいが漂っている。私は五感を研ぎ澄ましながら、来る日も来る日も、家の間取り図を描き続けた。
今考えれば、私は韓国・全州の実家によく似た屋敷の間取りを描いていたように思う。いつも客人であふれ、ワイワイガヤガヤとにぎやかな家が好きなのだ。それは、まだ父が健在で大家族が楽しく暮らしていた時代への郷愁だったのかもしれない。
「自分の城を築き、昔のような楽しい生活を取り戻したい」ーー。これが、その後の人生の大きな目標になった。
やがて太平洋戦争が始まり、ニューヨークに赴任していた長兄が慌ただしく日本に戻ってきた。1942年(昭和17年)のことだ。長兄の家族と同居するため、直ちに私と母と三姉は上京する。「芦田家の家長である長兄と暮らしたい」と母が熱望したからだ。四高に進学した四兄は、そのまま金沢に残った。
親族を転々と渡り歩く居候生活はその後もずっと続いた。母に手を引かれ、自分の居場所を求めるさすらいの日々。私は放浪の旅を繰り返す。「家なき子」だった。

没有评论: