2009年11月19日星期四

宵越しのカネは持たず 母の急死後、表参道に引っ越し

気ままな独身
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私は東京・人形町にあるアパレルメーカー「ジョンストン」に移った。紳士服メーカーだったが、「婦人服を本格的に手がけたい」 というオーナーの意向で私に白羽の矢が立ったのだ。
入社するとすぐ高島屋の店舗に「キュート・コーナー」という私の売り場ができた。ジョンストンの看板デザイナーとして、私は驚くほどの高給をもらった。ほかにファッション雑誌への掲載料など副収入もあったから、独り身には十分すぎるほどの額だった。
そこで東京・下落合に念願の一軒家を借り上げ、母や戦争未亡人になっていた長姉、その息子たちを呼び寄せて一緒に暮らすことにした。病弱な母のために風呂も増築しった。こうして曲がりなりにも、「自分の城」を手に入れたのだ。家は急ににぎやかになり、私は一家の生活を支える大黒柱になった。
だが、その状態も、つかの間で終止符を打つ。1957年(昭和32年)に母が69歳で急死したからだ。その前夜、不思議な予兆があった。襖一枚隔てた隣から「ヒトシー」という叫び声が聞こえたのだ。急いで様子を見に行くと母の寝言だった。当時、離れて暮らしていた四兄、等の夢を見たという。
そして翌朝、姉が食事を運ぼうとして母の部屋に入ると、母は既に息を引き取っていた。心臓疾患による病死だった。抱きしめると、まだぬくもりがあった。父の病死後、兄弟姉妹の元を転々としながら女手一つで私を育ててくれた母。死に顔が安らかだったのが心の救いだった。私は心づくしの葬式を挙げ、母を天国に送り出した。
母の死後、私は長姉の家族と別れ、一人暮らしを始めた。「今度はデザイナーらしいオシャレな暮らしがしたいな」と思って、表参道にある外国人向けの平屋住宅に引っ越した。2LDKで、寝室や浴室がやけに広いホテルのような家だった。そんな生活感のない部屋で、私の気ままな独身生活が始まった。
朝は渋谷の小粋なレストランでトーストとコーヒーの朝食。夜は繁華街のディスコやナイトクラブを遊び歩く。赤坂のナイトクラブ「コパカバーナ」や新橋のダンスホール「フロリダ」には良く通った。
そして最後には六本木の中華レストラン「皇妃園」でお開き。こんな毎日が続いた。「宵越しのカネは持たない」という矜持だった。
だが外食ばかりが続くとどうしても飽きてくる。「たまには焼き魚をたべたいなぁ」と思って、魚屋でサバを丸ごと1匹買ったが、裁き方がさっぱり分からない。仕方がないから冷蔵庫に入れて放っておいたら、後で水分が抜けてすっかり干かびたら”サバのミイラ”をみつけて、肝をつぶしたこともある。
そんなころ、ジョンストンに運命の女性が颯爽と現れた。新入りデザイナーとして採用された富田友子。今の伴侶である。当時、私は雑誌にも取り上げられる有名人だったから、友子の方は「芦田淳ってどんな人かしら」 と興味津々だったようだ。
だが私の方は「鼻持ちならないお嬢様が入ってきたな」くらいにしか思っていない。ところが、ある劇的な”告白”をきっかけに私の気持ちは急速に友子に傾いていく。

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