2009年11月12日星期四

「自由に生きる」涙の決意 思い知った人生のはかなさ

三兄の急死
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芦田家には兄弟が集まると必ず始まる伝統行事がある。酒を飲みながら、旧制高校の寮歌を手を打ち鳴らし、大声で合唱するのだ。長兄は六高、三兄は五高、四兄は四高とそれぞれ母校の寮歌を歌った。次兄も負けじと早稲田の校歌を披露した。
この伝統行事は長兄が戦死した後も続く。私はそんな兄達の学歴意識に猛烈な反発心を抱いた。私立の東京高校に進学した私は、まず小学校で肋膜炎を患ったこと、さらに疎開先の山口で英語の授業について行けなかったことが理由で、同期よりも2年も進級が遅れていた。
多摩川のほとりに立つ学校は自然に恵まれたすばらしい環境だった。春になると桜の花が咲き誇り、さわやかな風が頬をなでる。私はこの風景を愛した。土手に座り、滔々と流れる川面を眺めながら、親友と人生や哲学について語り合った。
「オレは大学に行って哲学をやりたいな。芦田は将来、何になるつもりだ?」
「絵が好きだから、大学には行かずにデザイナーにでもなろうかな」
早く自立したいと考えた私は、自分の夢を親友に包み隠さず打ち明けた。大学に進学しないなどと兄には絶対に話せなかったが、親友にはすべてをさらけ出すことができた。真っ赤な夕日に染まった多摩川の土手をみるたびに、そんな青春の記憶が鮮やかによみがえる。
やがて高校3年になり、大学に進学すべきか、デザイナーになるべきかを真剣に悩み始めていたころ、家族にとって大事件が起きた。母と居候していた家の主である、後見人でもあった三兄が急死したのだ。あれだけ元気だった兄が・・・・・・。皆、言葉を失った。
厚生省に勤める三兄は仕事の虫だった。過労がたたったのだろう。ある日、腸チフスを患い、入院することになった。でもまさか命に別条があるとは思っていない。兄嫁の親戚が院長を務める大病院に入院し、治療体制も万全のはずだった。だが信じられない悲劇が起きた。
あれは、穏やかな日曜の昼下がり。私は母と兄嫁らと団欒の一時を過ごしていた。たまたま遊びに来ていた四兄が奏でるピアノの調べに皆が耳を傾け、つかの間の休日を楽しんでいた。そのとき、病院から緊急連絡が入ったのだ。「容体が急変した。すぐに来てほしい」
ただならぬ気配に兄嫁と四兄は直ちにタクシーで病院へ急行。私と母は三兄の子供達の着替えを手伝ってから後を追った。病院に着くと、長い廊下の先に医師や看護師が力なく立っていた。「最善を尽くしましたが、ご臨終です」。主治医がつぶやく言葉を、私はにわかには信じることができなかった。
輸血した血液が体質的に合わずに急死したという。「大病院で、しかも腸チフスで死ぬなんて」。夢でも見ているんじゃないかと思った。病室からは兄嫁達のすすり泣きが聞こえた。東京駅で出征直前に召集が解除されて命拾いをした強運の持ち主に、こんなあっけない結末が待っているとは。
三兄のことを恨んでいたはずなのに、私は涙が止まらなかった。人生のはかなさを改めて思い知った。「これからはメンツもしがらみも捨て、自由に生きよう。人生は自分の手で切り開こう」。それがなくなった兄が残してくれたメッセージのように思えた。

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