2009年12月21日星期一

愛情に包まれた英生活 7歳で帰国、成蹊学園に入学

幼少期
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by 槇原稔

ロンドンで生まれた私は家族の愛情に包まれ、穏やかな幼少期を送った。クリスマスや誕生日には友達を家に招き、パーティーを開いてもらった。夏休みは一家で田舎で過ごす習慣だった。雑木林にジュシマツの巣があり、卵を見つけたときは、大興奮して父母に報告した。
ロンドンで忘れられないのは、私の面倒を見てくれたスコットランド出身のミス・グラントという住み込みのナニー(養育係り)だ。後に青年時代に米国に留学したとき、周囲のアメリカ人から「イギリス風の英国だね」とよく言われた。「小さいころ、ミス・グラントと喋っていたおかげだろう」と思い込んでいたのだが、これが全くの間違いと判明する。
成人した後にエジンバラに住んでいた彼女を訪ねると、スコットランドなまりが強く、聞き取るのに苦労した。英国風のアクセントがどこで身についたのか、自分でもいまだに謎のままだ。
家には三菱商事のロンドン支店に勤めていた父の仕事関係の来客が多く、母はそちらに忙殺された。が、私の教育には熱心で、日本語の先生は母だった。
小学校に入学する直前には「水泳だけはできたほうがいい」ということになって、腹の下に紐をかけて、プールの中をぐいぐい引っ張られた記憶がある。今から思うと珍妙な訓練だったが、おかげで泳ぎを覚えた。ちなみに母はそれまでかなづちだったが、私に教えるために自分でまず水泳をマスターしたそうだ。
日本に帰国したのは1937年、7歳のときだ。米大陸経由で横浜に着いた、船員たちに良く遊んでもらったこと、ニューヨークで同地の三菱商事の支店長の歓迎を受けたことなどが思い出される。
思えば7歳までロンドンにいたのは僥倖だった。5歳までに帰国した人には、まるっきり英国を忘れてしまった人が多いが、私はそうはならなかった。英語という言葉が、人生の大きな導き手になったのは往々詳述したい。
父はその後すぐにロンドン支店長として単身で再赴任し、私は母と二人で東京に残った。当時父から来た手紙が幾つか残っている。40年7月の手紙にはこうある。
「稔はだんだん字が上手になるし、間違いがなくなってきた。ミス・グラントにみせたら日本時でも稔の成長が分かるといっていた。Daddy(お父さん)も鼻高々さ」。そう書いた手紙の片隅には鼻のイラストがついていた。
冗談だが父の手紙をみると達筆に驚かされる。母文字は下手ではない。ところが、私は若いころから悪筆で、この履歴書の題字を書くにも苦労した。なぜ両親の達筆を受け継がなかったのか、いまでも悔まれる。
それはともかく、私も頻繁に手紙を書いた。シベリア鉄道経由で送ると船便より早くつくので、いつもシベリア経由で投函した。
帰国後入学したのは三菱グループとゆかりの深い東京・吉祥寺の成蹊学園。当時の成蹊に今までいう海外帰国子女をあつめた操洋学級というクラスがあった。すぐに日本の生活になじめ、友達もたくさんできた。幼かった私は、愉快で満ち足りた日々がいつまでも続くものと信じていた。

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単語

雑木林 ぞうきばやし
じゅうしまつ a chinese hawk-cuckoo
スコットランド scottland 英国、大ブリテン島北部
金槌 かなづち
珍妙 ちんみょう
僥倖 ぎょうこう
追々 おいおい
詳述 しょうじゅつ
鼻高々 はなたかだか
達筆 たっぴつ
悪筆 あくひつ
満ち足りる みちたりる

2009年12月20日星期日

秀才の父 苦学し大学へ 文学好き母は芥川と面識

両親
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by 槇原 稔

私の父、槇原覚は1894年に鳥取との県境に近い岡山の神代村という農村に生まれた。家は小作農で、経済的には貧しかったが、勉強は抜群できたらしい。こんな逸話がある。小学校の先生が教室で質問すると、窓の外から答えが返ってきた。驚いて外を見ると、学校に上がる前に小さな子ともがいて、それが父であった。校庭で遊ぶついでに先生の話を聞いて、すらすら内容を理解したという。
そんな父が親戚を頼って上京したのは14歳のときだった。最初は使い走りや子守を経て、一橋大学に進んだ。貧しい出身の父がこの時代に最高学府まで進学できたのは、一つの縁に恵まれたからだ。
三菱の創業者として有名な岩崎弥太郎には久弥という長男がおり、久弥には3人の息子がいた。久弥はこの3人を手元におかず、本郷龍岡町に寮を作り、教育者を迎えて、同年代の青年達を学友として同居させた。
これは息子達の教育のためであったが、同時に将来の三菱の幹部の養成を考えていたのかもしれない。様々な大学から学生が集まった。父もその一人に選ばれ、援助を受けることになったのだ。父と岩崎家にどんな接点があったのか今では知る由もないが、地方出身の苦学生にとって、これはたいへん幸運なことだった。
お金の苦労から解放された父はテニスに熱中し、いつも浅黒く日焼けしていたという。学業でも優秀な成績を収めた。卒業式で送られたという金時計は、残念ながらもう残っていないが・・・・・・。
卒業後は当然のように三菱商事の門をたたき、1921年に母の治子(旧姓・秦)と結婚した。父28歳、母21歳。この2人の仲を取り持ったのが、母の兄で、三菱商事の社員だった秦豊吉である。
小作農の出身である父とは対照的に、母の実家の秦家は東京で薬商を営み、裕福な暮らしぶりだったようだ。親戚には歌舞伎役者もおり、さらに豊吉は商社務めの傍ら文化的な方面でも活躍した。
戦前にはレマルクの「西部戦線異状なし」やゲーテの「ファウスト」を翻訳し、文名を上げた。「ファウスト」についてはすでに森鴎外の訳があった。「なぜ改めて君が訳すのか」と聞かれた豊吉は、「鴎外はファウスト博士と悪魔のメフィストフェレスの関係を誤解している。その誤りを正したい」と答えだそうだ。後に当方に移籍し、日劇ダンシングチームを育てるなど演出家としての才能も発揮した。
牛込余丁町の秦家の屋敷には、豊吉の友人の芥川龍之介もときどき遊びに来た。龍之介には絵心があって、ちゃぶ台で幼い母の似顔絵を描いてくれたという。そんな影響もあってか、母は若いころは文学志望だったようだ。「水島京子」の筆名で懸賞小説に応募し、自作の小説が雑誌に載ったことも何度かあった。
私が生まれたのは、結婚から9年がたち、父母がロンドンに駐在していた1930年のことだ。母は一度流産しており、両親とも子供は諦めていたそうだ。妊娠がわかって、父は大量のミネラルウオーターを取り寄せた。生まれてくる子供を大事に育てるために万全を期したのだ。

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単語

秀才 しゅうさい
槇原覚 まきはらさとる
神代 かみよ
逸話 いつわ
使い走り
子守 こもり
一橋大学 ひとつばしだいがく
岩崎弥太郎 いわさきやたろう
岩崎久弥 いわさきひさや
本郷龍岡町 ほんごうりゅうおかまち
浅黒い あさぐろい
金時計 きんどけい
秦豊吉 はたとよきち
傍ら かたわら
森鴎外 もりおうがい
日劇 にちげき
牛込余丁町 うしごめよちょうまち
芥川龍之介 あくたがわりゅうのすけ
絵心 えごころ
ちゃぶ台 ちゃぶだい
筆名 ひつめい
流産 りゅうざん

2009年12月19日星期六

人生の半分は海外生活 心はいつも日本とともに

すべて自然体
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by 槇原稔

1930年(昭和5年)生まれの私はいわゆる「昭和1けた世代」に属するが、同じ世代の多くの日本人とはかなり異なる経験を歩んできた。父の仕事の関係でロンドンで生まれた。戦後は縁があって米国に留学し、ニューハンプシャー州にあるセント・ポールズ高校を経て、ハーバード大学に学んだ。
帰国後は父の勤め先であった三菱商事から誘いがあり、入社を決めた。高度成長時代をビジネスマンとして過ごしたが、いわゆる「モーレツ社員」ではなく、社外の人たちとの付き合いも大切にしてきた。92年の社長昇格は、私にとっても、おそらく周囲にとっても、誠に意外なことであった。
私の社長人事が発表されたとき、若いころから読み親しんできたニューヨーク・タイムズ紙は「同世代の青年達が東京大学の入試に苦労しているとき、マキハラはニューイングランドの名門高に通っていた」「三菱の同僚が本社で出世の階段を登っているときに、マキハラはロンドンやワシントンに駐在し、20年以上を過ごした」と書いた。
海外メディアから見ても「異邦人」「エイリアン」と呼ばれた私のような経歴の人間がいわゆる日本の代表的企業のトップに座るのは驚き以外の何ものでもなかったのだろう。
私自身、自分の人生がなぜこんな軌跡をたどったのかはよく分からない。若くして亡くなった父や一人息子の私に愛情を注いでくれた母の有形無形の影響は大きかった。社会に出てからは友人や上司に恵まれ、かつ運が良かったことは確かだ。
若いころから無理はせず、自然体で生きてきた。ポストやその他のものをめぐって、他人と争うこともなかった。「入学試験や入社試験の類は一度設けたことがない」というと、びっくりする人が多い。
私が7歳から19歳まで過ごした東京・吉祥寺の成蹊学園の校名は「桃李ものいわざれども、下おのづから蹊を成す」に由来する。自分に「桃李」ほどの魅力があるとは思えないが、誠実に努力すれば周囲は認めてくれる、というのがとりあえずの結論である。
今年夏、英国出張のおり幼少期を過ごしたロンドン近郊のハムステッドという町を再訪すると、父母とともに暮らしたアパートメントが今もあった。外壁はきれいに塗り直されているが、玄関や窓の形は当時のまま。感慨にふけっていると、私と同年配の紳士が通りがかり「何をしているのか」と聞く。「実は70年前にここに住んでいた」というと、「それは奇遇。私もそのころからの住人だ」
誘われるままに彼の部屋を訪ねると、窓から見える風景は往時とのほとんど変わっていない。近所の友達を集めて開いた6歳の誕生日パーティーが思い出された。
考えてみると、このアパートを振り出しに人生の半分近くを英国と米国で過ごしたことになる。だが、日本の内と外を往来しながらも、心はつねに日本とともにあった。ビジネスの前線を退いた今、戦前から続く東洋学の研究拠点、東洋文庫の理事長を務めているのも何かの縁だろう。「こんな人生も面白そうだ」と、読者のかたがたに思って頂ければ幸いである。


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単語

槇原稔 まきはらみのる
外壁 がいへき
成蹊学園 せいけいがくえん
桃李もの言わざれども、下おのづから蹊を成す とうりものいわざれども、したおのづからみちをなす
往時 おうじ
退く しりぞく

2009年12月15日星期二

バトンタッチ 心の準備 親子の夢、次女がパリデビュー

次世代
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白い画用紙の上を鉛筆が滑らかに走る。今でもこの瞬間が楽しくてたまらない。枕元にスケッチブックを置き、気分が乗ればいつでも鉛筆を動かし、洋服のデザインに思いを巡らす。イブニングドレスから肩の力を抜いたカジュアルウエアまで。どんなデザインもおもいのままだ。大切なのは全体のプロポーションとリズム感。まずは美しい服があり、体の方をそれに合わせるというのが私の持論。右の肩が下がっているのなら、姿勢を矯正すべきだし、ダメならパッとで補整すればよい。そんな気持ちでひたすら仕事に取り込んできた。
「仕事はサーカスの玉乗りのようなもの。足を止めたら転がり落ちて大ケガをする」。私は会社経営をこうたとえてきた。「引退はまだまだ先のこと」と思っているが、この8月21日でとうとう79歳の誕生日を迎えた。さて、この「玉乗り」はいつまで続くのだろうかーー。ただ気力が充実している限り、第一線で走り続けようと思っている。
東京・渋谷の雑居ビルの2階で社員10人ほどで会社を始めたのが1963年(昭和38年)。それが今では社員約400人、年商約120億円。その間、妻と二人三脚で高島屋の顧問デザイナーや皇室デザイナーなどを務め、96年にはアトランタ五輪の日本選手団公式ユニフォームのデザインも手がけることが出来た。
パリの目抜き通りにオープンした直営店は20周年を迎え、売り上げは堅調だ。2002年(平成14年)に発表した「コンパス」という中心を丸く繰り抜いた円形ストールもヒット商品に育った。何とかここまでやってこられたのは、ひとえにすばらしい人との出会いと支援があったからだと深く感謝している。
ところでこの「コンパス」は実用性と美しさを兼ね備えた私のデザインの集大成となった。頭からかぶればマント風、襟元に巻けばドレス風・・・・・・。着方によって様々に表情が変わるのが特徴だ。
思い出すのは05年2月。ウィーン国立歌劇場でソプラノ歌手、グルベローヴァがその「コンパス」を着てステージに上がったことである。
歌劇「ノルマ」を披露した晴れ舞台。彼女は自ら選んだ白い毛皮で縁取りされた楕円形の「コンパス」を身にまとい、心のこもったつややかな歌声を響かせていた。客席からは万雷の拍手がいつまでも鳴り止まなかった。
昨夏には、大きな節目がやってきた。91年に東京コレクションでデビューした次女の多恵がパリで始めてショーを披露したのだ。親子にとって長年の夢だった。私は77年にパリコレに参加し、3年で見切りをつけたから、芦田家としては実に29年ぶりのパリでのショーとなった。
私と妻はあえて欠席し、日本で娘の帰りを待っていた。親がしゃしゃり出たら、娘が脇役になってしまうからだ。次女には随分、昔からパリに出るようにと進めてきたが「もし失敗したら、父の名を汚してしまう」と娘の方が慎重だった。今回のショーは次女にとって意味のある一歩になった。大きな自信にもつながったはずだ。
いつかバトンタッチする日が来るまでーー。私がこれまで人生を通じて得た様々な経験と教訓を次世代にも伝えることが出来るのなら、これ以上の幸せはない。

終わり
(ファッションデザイナー)

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単語

枕元 まくらもと
玉乗り たまのり
雑居 ざっきょ
二人三脚 ふたりさんきゃく
毛皮 けがわ
昨夏 さくか
節目 ふしめ

2009年12月14日星期一

NYで前兆、急遽帰国 奇跡の回復、早朝テニスは封印

脳梗塞
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発作の前触れがあったのはニューヨークのホテルだった。「しゃべっているときの語尾がなんだか変だよ」。有事からこう言われていた。疲れが原因かと思って、当地に駐在していた長女の家族たちと予定していたミュージカル鑑賞をキャンセルし、ホテルの部屋で休んでいたのだ。
私は上半身がふらふら出、壁に手をつかなければ歩けない状態だった。課鏡に移った自分の顔は土色でまったく血の気がなかった。現地の日本人医師に診察してもらうと、早く帰国して精密検査を受けたほうが良いという。そこで急遽、チケットを手配し、日本に帰国することにした。
「使い慣れた湯船に浸かってから、寝床でゆっくり休もう」。そう思って、自宅の風呂場から出たところで電話が鳴った。掛かり付けの病院の医師からだった。「芦田先生、ダメですよ。すぐに入院してください。危険な状態です。スタッフが待機していますから」という。そのまま緊急入院することになった。
この判断は的確だった。翌日、脳梗塞の発作が私を襲ったのだ。最初は右手の指先の痺れだった。それが手のひら、手首、腕、肩と伝わり、あっという間に右半身全体に広がった。もう助けを呼ぼうにも思うように口が動かない。「お、お、おお・・・・・・」とどもったまま私はベッドの上でもがいていた。
幸い、回診中の医師に見つかり、助かったが、もし自宅で発作が起きていたら都思うとぞっとする。「万一のこともあるので親族にも連絡を取れるように」。妻や娘には病院から内々にこんな打診があったようだ。ところが奇跡が起きた。この迅速な診療が予想以上の成果を挙げたのだ。
症状はみるみる回復し、2週間ほどで退院できるまでになった。入院中は出された食事をきちんと間食し、規則正しい生活を送り、優等生だと褒められた。「優等生だ出ずに退院できる人なんて珍しい。幸運ですよ」。婦長さんからもこう言われた。
その間、頭が下がったのは妻の友子だ。緊急治療室の硬くて小さなベンチに見に横たえ、何日も献身的に看病してくれた。おそらく満足には眠れなかったと思う。ありがたいことだと思っている。
後遺症ではないが、一つだけ影響が出た。それは、大好きなテニスを諦めなければならなかったこと。大学に行かなかった私は、体育会に所属してスポーツをバリバリ出来なかったことが心残りだった。そこで51歳になってからテニスを始めた。東京・用賀に専用のコートを2面作り、1年に200日もテニス漬けになっていたのだ。
朝6時にはコートに立ち、8時までラケットを振って汗を流す毎日。そしてシャワーを浴びて9時の会社の朝礼にでるのである。練習相手は慶応大学のテニス同好会出身の若者達。時には日本プロテニス協会の理事長でデビスカップに出場した渡辺功プロにも直接指導してもらった。「遅い青春」を取り戻そうという気持ちからだった。
テニス日記の日付は1982年元日から1998年11月29日まで、さすがに脳梗塞の発作が出て「もう潮時か」と覚悟を決めた。こうして私の「遅い青春」は静かに幕を下ろした。それは、病魔から完全に復帰できたことへのささやかな代償だったのかもしれない。



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単語

早朝 そうちょう
脳梗塞 のうこうそく
土色 つちいろ
血の気 ちのけ
湯船 ゆぶね
迅速 じんそく
婦長 ふちょう
献身的 けんしんてき
心残り こころのこり

「お古」育ち次女が跡取り ともに留学、語学力が財産に

2人の娘
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「ねえ、見て!これ凄いのよ。お姉様のお古なの」。次女の多恵は少女時代、「お古」が素晴らしい物だと信じ込んでいたようだ。
長女の有子には、まるで着せ替え人形のように欧州から買い付けてきた子供服を着せて楽しんでいたので、その反動から長女はファッションにまったく興味を示さない子になってしまった。
逆に、毛玉だらけのセーターなど姉の「お古」を着せて育てた次女の方が、ファッションに関心を持って私の後継デザイナーになるのだから、人生とは分からないものだ。次女は小さいころから絵が大好きで、布とハサミで器用に人形を作って遊んでいた。「私、将来デザイナーになるわ」と自分から言い出したのは小学生の時だった。
娘達を若いうちに留学に出すーー。私は昔からこう決めていた。一つには国際感覚を持っていたほうが仕事のチャンスに恵まれるという狙いから。もう一つは私自身が幼少時から語学で苦労し、ずっと劣等感を味わってきたからだ。特にデザイナーを目指していた次女には、英語のほかフランス語も話せるようになって欲しいと思い、スイスのレマン湖のほとりにある寄宿舎付きの高校に留学させた。
米国に留学した長女の方はすぐに溶け込めたが、次女は大変だったようだ。欧州の裕福な子女が多いこの学校では3、4カ国語話せるのが当たり前。だが次女はフランス語はもちろん英語でさえ満足に通じない。入学してから1年ほどはクラスでも孤立しがちで、国際電話で話す声も心もなしか元気がなかった。
留学した年のクリスマス休暇。私はパリ出張のついでにスイスの高校に立ち寄ってみた。次女が小鳥のようにびくびくしながら学生生活を送っているのを見て、私は胸を痛めた。その夜、一緒に過ごしたホテルで娘は私と手をつないで寝た。よほど心細かったのだろう。翌日、朝日にか火薬琥珀色のアルプス連峰を眺めながら、私は後ろ髪を引かれる思い出日本に帰国した。
「パパ。私、運動会で1等になったのよ。リレーの選手にも選ばれたの」。弾むような声が国際電話から響いたのは年が明けて春になったころだ。運動神経はもともと良かったが、170センチ以上の大柄な生徒もいる中で、小柄な次女が運動会で大活躍したらしい。それがきっかけで学校にもうまく溶け込めたという報告を聞くと、私はホッと胸を撫で下ろした。
身分不相応かなと思いつつも、次女を送り出したスイスの名門校。仕送りも大変だったが、娘達の奮闘が、私にどれだけ力を与えてくれたことか。次女は高校卒業後、米国の美術大学に進み、今では英語もフランス語も自在に話せる。通訳がいないと外国では仕事が出来ない私にとっては、うらやましい限りだ。娘たちに残すことができた無形な財産だと思っている。
その後、長女は全日本空輸に勤める宮伸介君と、次女は山東昭子・参院副議長の甥で旧日本興業銀行に勤めていた山東英樹君とめでたく結婚した。山東君は銀行を辞め、1997年(平成9年)に私の会社に入った。おかげで私の重荷はだいぶ軽くなった。
今では孫が合計4人。昔から私が懸命に追い求めてきた暖かい言えと家族が、ようやく手に入ったとしみじみと実感している。


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単語

多恵 たえ
有子 ゆうこ
毛玉 けだま
幼少 ようしょう
寄宿舎 きしゅくしゃ
裕福 ゆうふく
連峰 れんぽう
奮闘 ふんとう
宮伸介 みやしんすけ
山東英樹 さんとうひでき
重荷 おもに

2009年12月11日星期五

大女優と近所付き合い 石坂浩二さんの絶品料理で歓待

ルリちゃん
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浅丘ルリ子さんは人気画家、中原淳一先生がその才能を見出し、映画「縁はるかに」のヒロイン役抜てきして以来、日活の看板として活躍してきた大女優である。私はかつて、中原先生の内弟子だったこともあり、ひそかに親近感を抱いていた。
トーク番組の衣装を担当したことからルリ子さんと知り合ったが、夫婦ぐるみの付き合いが始まったのは、実は「家」が縁だった。東京・青葉台の自宅を建設するため、私は2年ほどマンション暮らしをしたことがある。そのとき、同じマンションに住んでいたのが浅丘ルリ子・石坂浩二夫妻だった。
「あら、芦田先生じゃない。奇遇ねえ。一体、こんなところでどうしたの?」
「あれ、ルリちゃんか。実は今度、このマンションに引っ越してきたんだよ」
マンションの入り口で偶然、顔を合わせ、こんな挨拶を交わしたことから"近所付き合い"が始まった。
あるとき、京都からマツタケが送られてきたので、私はるり子さんの家に届けたことがある。妻が生地の買い付けで欧州に行っていて、私だけではとても食べきれなかったからだ。すると翌日、ルリ子さんが玄関先に現れた。
「先生。昨日はマツタケ頂いてどうもありがとう。これ、うちのへーちゃんが作ったのよ。すごく美味しいから食べてみてね」
涼しげな笑顔を浮かべながら、ルリ子さんはナプキンのかかったお盆を差し出した。中身はきれいに盛り付けされたマツタケのグラタンとマツタケご飯。ちなみに「へーちゃん」とはルリ子さんが石坂浩二(本名=武藤平吉)さんをよぶときの愛称。また、その料理のおいしかったこと。石坂さんの玄人は出しの料理にはいつも感激した。
家に招待されると、腕によりをかけた山海の珍味をご馳走してくれる。デザートにメレンゲが出てきたときにはただただ脱帽するばかり。フランス料理、日本料理、中華料理、イタリア料理・・・・・・。何でもこなした。台所には丁寧に研いだ柳包丁が何本も下がり、深底鍋など調理道具もたくさん並んでいた。まるでレストランの厨房のようだった。
よくマージャンにも誘われた。そんな時、ジャン卓を囲むのはもっぱらルリ子さん。石坂さんは夜食づくりの担当だった。「へーちゃん、そろそろおなかがすいちゃったわ」。真夜中、ルリ子さんが声をかけると、石坂さんがいそいそと台所に立つ。そして、鳥を丸1日煮込んで取ったという出汁で夜食のラーメンを作ってくれた。
そのおいしかったこと!絶品だった。「ルリちゃんは料理はしないの」と尋ねると「へーちゃんの方が上手だから任せているの」となんともあっさりした返事。そんな飾り気のない人柄に私は好感を抱いた。ルリ子さんは私のショーに駆けつけてくれる。私も彼女の芝居や映画を良く見る。お互いにズケズケと素直に批判し合える気の置けない間柄だ。
浅丘、石坂夫婦が別れてしまった時、私はルリ子さんを力づけようと思って「何か買ってあげようか」と尋ねた。「宝石がいいな」と言うので、「涙の滴」を模った小ぶりのダイヤのイヤリングを送った。時折、まだそれを身に着けてくれているようだ。笑いも涙も共に分かち合ってきた兄妹のような交流が今も続いている。


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単語

石坂浩二 いしさかこうじ
ヒロイン
抜擢 ばってき
親近感 しんきんかん
涼しげ すずしげ
ナプキン
武藤平吉 むとうへいきち
玄人 くろうと
研ぐ とぐ
飾り気のない人柄 かざりけ
滴 しずく
模る かたどる
分かち合う わかちあう

TurnkLinux上にOpenMeetingsをインストール

apt-get install 
apt-get install imagemagic
pat-get install swftools

apt-get install openoffice-headless
soffice -headless -nologo -nofirststartwizard -accept="socket,host=127.0.0.1,port=8100;urp"

2009年12月9日星期三

Serviceコマンドの追加

UbuntuにRedHatにある管理ツールserviceを追加できます

apt-get install sysvconfig

蒼い瞳の奥に「心の父」 アーリントン墓地、今生の別れ

中日米大使
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人との縁は不思議なものだ。マンスフィールド元駐日米国大使が1977年(昭和52年)、日本に赴任してきたときのレセプション。私は社交辞令のあいさつを済ませて早々に退席しようと思っていた。ところが大使の前に立ったとたん、その蒼い瞳の奥になんとも言えない優しい光が宿っているのを感じた。
そこで私は勇気を振り絞り、「大使、素敵なスーツをお召しですね」と話しかけてみた。すると「君もいいワイシャツを着ているじゃないか」といたずらっぽく答えてくれる。その瞬間、笑いがこぼれ、その場の空気がパッと和んだ。私の心も安らいだ。それが最初の出会いである。
なぜだか分からない。気難しいと評判の大使だったが、私とは不思議に馬があった。家族ぐるみでパーティーしたり、旅行に出かけたりするほど親密な交流が始まった。
懐かしいのは84年に芦ノ湖に一緒に家族旅行をした時の思い出だ。メンバーは大使、モーリン夫人と令嬢、そして私たち4人家族。当日はあいにくの雨でボートで湖を渡ったときには皆、びしょぬれだった。でもモーリン夫人は「大してぬれていないわ。アドベンチャーみたいで楽しい」と明るく笑い飛ばしてくれた。
その日は偶然、私の誕生日。夕食時、私のことを大使は「マイ・サン(我が息子)!」と呼んでくれた。大使とは27歳違い。小学5年で父が失った私は大使に「父の幻影」を見ていたのかもしれない。大使も一人娘だけで息子はいなかった。大使の言葉に、私は父親に抱かれているようなぬくもりを感じた。
その2年後には大磯に旅行した。驚いたのは食後。浴衣に着替えた大使はアイルランド民謡「ダニー・ポーイ」を朗々と歌いだしたのだ。「人前で歌うのは初めて」と夫人は不思議がっていた。貧しいアイルランド系移民として出生。幼くして母と死別し、軍役を重ねた末、モンタナの銅鉱山の地下坑で汗にまみれては働いていた彷徨の日々と思いでしたのだろうか。
カーター大統領に任命された大使は、次のレーガン大統領からも職にとどまるように請われ、88年まで歴代最長の11年半も日本に在任する。知日派大使として輝かしい業績を残す一方で、気さくで誠実な人柄は人々を魅了した。
2001年(平成13年)5月。私はワシントンにマンスフィールド氏を訪ねた。前年にモーリン夫人を亡くし、力を落としていると聞いたからだ。夫人が埋葬されているアーリントン国立墓地に着くと、小さな白い墓石を見つけた。私はハンカチで墓石を何度もぬぐった。様々な思い出がこみ上げてきて、私は子供のように泣きじゃくった。
帰りの車中。私と元大使は固く手を握り合ったままだった。もはや言葉はいらなかった。元大使の表情は柔和になり、聖者のようだった。私たちは抱擁を交わして別れた。元大使はいつまでも私の姿を見送ってくれた。もうこれが、今生の別れだと知っているかのように・・・・・・
その年の10月。元大使は夫人の後を追うように98歳で亡くなった。父の記憶が薄い私によって、マンスフィールド氏は国や人種や言葉を超えた「心の父」だった。今でも「ダニー・ボーイ」のあの美しい調べを聞くと、透き通るような蒼い瞳と穏やかな笑顔が懐かしくよみがえってくる。


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単語

今生 こんじょう
宿る やどる
馬がある
びしょぬれ
幻影 げんえい
大磯 おおいそ
銅鉱 どうこう
請う こう
埋葬 まいそう
墓石 ぼせき
柔和 にゅうわ
聖者 せいじゃ
抱擁 ほうよう
透き通る すきとおる

2009年12月8日星期二

無名時代の10年 助手に トンカツ弁当が好物の親日家

ラクロア
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世界的なファッションデザイナー、クリスチャン・ラクロア氏がまだ無名だったころ、東京の私の会社でアシスタントデザイナーとして武者修行していたことがある。年2回来日し、服のデザインの一部を手伝ってもらっていた。パリの香りや流行を取り入れるのが目的だった。
であったのは1977年(昭和52年)に私がパリコレで開いたショー。気鋭のプロモカール氏の助手としてショー会場のベンチにちょこんと腰掛けていたのがラクロア氏だった。緑、黄、赤の派手なチェックのズボンをはいていたので「何だか、伊勢丹の買い物袋みたいだな」と思ったのが強く印象に残っている。
「彼はすばらしいデザイン画を描く。雇ったら必ず役に立つ」。ピカール氏の強力な推薦で我が社のアシスタントデザイナーになった。試しにデザイン画を描かせてみると、粗削りだが確かに光るものがある。結局、ラクロア氏が独立する87年までの10年間、仕事を手伝ってもらった。
こうしたラクロア氏のデザイン画を商品に落とし込むのが、社内で企画や生産を指揮する私の妻の仕事だった。生地を使って実際に商品をつくる過程を体験できたのは彼にとってよい経験になったに違いない。我々も作品のイメージを膨らますのに、彼がもたらす豊かな創造性やパリのトレンドが役に立った。
「この生地で服を作りたいけどいいですか」
「ダメダメ。この生地は少し高いから、まずこっちの生地で作ってみましょう」
アトリエではデザイン画をトアール(白い木綿の布地)で立体化した見本を前に、ラクロア氏と妻が素直に議論しながら作品を仕上げていく。創造性を認めるクリエーターと、冷静な目で採算を見極める経営との激しい鬩ぎ合いだ。ラクロア氏は、いつしか妻のことを「日本の母」と呼ぶようになっていた。
不思議だったのはラクロア氏とピカール氏が来日した際、必ずトンカツ弁当を楽しみにしていたこと。2人とも仕出屋から届いた弁当に、ウスターソースをジャブジャブかけて「おいしいな、おいしいな」と満足そうに食べていた。大好物だったようだ。来日のたびにハシの使い方も上達した。2人の日本びいきは今でも変わらない。
ラクロア氏は物静かだが、南仏プロバンスの出身らしい煮え滾るような情熱と野心を胸に秘めた若きデザイナーの卵だった。ただ仕事のパートナーである妻とは違い、デザイナーである私に対しては一定の距離を保っていた。いわばクリエーター同士の不可侵領域のようなものだ。そんな関係が10年間続く。
ラクロア氏が自分のブランドを立ち上げ、我が社との契約を終えることになった最後の日。我々は送別会を開いた。「実はボクは東京で、生まれて初めてスイス製の高級生地や刺繍を使って服を作ったんです。芦田夫妻から受けた恩は決して忘れません」。ラクロア氏は私たちにこう挨拶してくれた。
ラクロア氏は名声を得た後も、以前と変わらない態度で接してくれる。世界的なデザイナーの無名時代を支えることが出来たのは無上の喜びだ。ラクロア氏はかけがえのない友人であり、いつも心地よい刺激を与えてくる生涯のライバルでもある。


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単語


無名 むめい
親日家 しんにちか
武者 むしゃ
修行 しゅぎょう
荒削り あらけずり
布地 ぬのじ
採算 さいさん
仕出屋 しだしや
物静か ものしずか
秘める ひめる
かけがえ
心地 ここち

2009年12月7日星期一

建築や暮らしぶり観察 昼餐会に三笠宮両殿下ご招待

パリに住む
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「パリで成功しようと思ったら、現地に住まないといけませんよ。いくら超高級ホテルにとまっても、旅人に過ぎませんから」。ある日、駐仏大使だった北原秀雄さんからこういわれたことがある。「もっともな話だな」と思い、早速、パリ中心部で物件を探し始めた。
最初に住んだのはジョルジュ・サンク通りにあるアパート最上階。居間、食堂、台所と3つの寝室、2つのバスルームがあり、社員も2、3人はとまれる大きさだった。家賃は1980年代当時で月25万円。日本の感覚では信じられないほどの値ごろ感があった。次に住んだのはフランソワ・プルミエ広場に面したアパートの3階。
140坪(約460平方メートル)のフロア全体が1つの家という豪華なつくりで、19世紀の建物にあわせて家具も同時代のアンティークでそろえてある。ここは天才画家ピカソの娘のパロマ・ピカソさんに競り勝って手に入れた物件だった。パリの自宅は生地の仕入れや店、ショーの視察で滞在するのに使うだけだったが、実際に住んでみると様々な発見があった。
まずアパートの住人から次々とパーティに招待され、部屋を見せてもらえたのが勉強になった。貴族の子孫だというある人の部屋は由緒ある調度類や美術品であふれ、美術館のようだった。壁に飾ってある絵を眺めていると「それは曽祖父がナポレオンから頂いたものですよ」と言われて、目を丸くした。
かと思うと、住み込みのメイドさんが暮らす屋根裏部屋の惨状には胸が痛んだ。天井は頭がつかえそうなほど低く、床は冷え冷えとしたコンクリートがむき出し。船室のような小窓からわずかな光が差し込んでいるだけで刑務所のようだった。厳然と残るフランスの階級社会の現実を目のあたりにした。
どうなに住まいが豪華でも生活面では意外に不便が多いことも分かった。シャワーが出ない、電話が通じないなどのトラブルは日常茶飯事。しかも修理業者を呼んでもすぐにはこないので、いつもイライラさせられる。何気ない日本の生活がいかに便利かを改めて思い知らされた。
パリ郊外にある数々のシャトーも見学に行った。良い物件があったら買おうと思ったからだ。結局は買わなかったが、これも私には良い勉強になった。建物や庭は必ず左右対称で整然としている。厨房は地下にあることが多く、そこから食堂まではかなり距離がある。使用人を大勢雇わなければとても暮らせないことも分かった。
1991年(平成3年)。パリの自宅で開いた昼餐会に三笠宮崇仁親王、同妃両殿下をお招きしたことがある。殿下は古代オリエント研究の業績が評価されてフランス学士院の外国人会員に選ばれることになり、その就任式に出席するために訪仏されたのだ。私はパリの有名料亭から腕利きの調理人を呼び、懐石料理のフルコースを召し上がって頂いた。
昼餐会の後、私は殿下にフランスの建造物の基本構造や人々の暮らしぶりについても細かくご説明した。これまでアパートやシャトーを物色して得た知識をフルに稼動させた。「今日は良い勉強をさせてもらいました。どうもありがとう」。殿下からこうおっしゃって頂き、私にとっては生涯忘れられない貴重な思い出になった。



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単語

三笠宮 崇仁 みかさのみや たかひと
駐仏 ちゅうふつ
北原秀雄 きたはらひでお
値ごろ感 ねごろかん
競り勝つ せりかつ
由緒 ゆいしょ
調度 ちょうど 家具
曽祖父 そうそふ
頭が支えそう つかえそう じゃまなものがあったり行きづまったりして、先へ進めない状態になる。
冷え冷え ひえびえ
厳然 げんぜん
厨房 ちゅうぼう
物色 ぶっしょく

2009年12月5日星期六

「ただの打ち上げ花火」 商売に結びつかず5回で撤退

パリコレ
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パリ・シャンゼリゼ通りにほど近い「ホテル・エ・シャボー」の会場は拍手と歓声に包まれていた。ステージ上では絞り染めの生地や帯留めを取り入れたドレスなどをモデルがまとい、華麗に歩いている。1977年(昭和52年)春。私は憧れのパリコレに始めて参加した。
評判は上々だった。フィガロが一面で「日本の皇室から飛び出してきたデザイナー」と報じてくれた。赤い縮緬の布に馬の絵や家紋が描かれた東洋風のドレスにも関心が集まった。ショーには約700人が集まり、私は華々しいデビューを飾ることが出来た。
だが、どうしても素直には喜べなかった。いくらメディアで話題になっても、具体的なビジネスに繋がらないからだ。ショーは年2回。一回あたり会場日、人件費、渡航費、材料費などを含めると1億円単位の出費になる。「でも、これではただの打ち上げ花火じゃないか・・・・・・」。むなしさだけが心に残った。
欧米メディアの報道ふりも気になった。日本人だと、なぜか東洋的な要素を求めてくるのだ。最初は"受け"を狙って和風の要素もショーに取り入れたが、実際の顧客はそんなものを求めていなかった。日本から輸出すると、関税が予想以上に高いことも初めて知った。パリコレに挑戦した私の目の前には様々な壁が立ちはだかった。
70年、高田賢三さんがパリコレで華々しくデビューして以来、日本人デザイナーが世界から注目されるようになり、三宅一生さん、山本寛斎さん、鳥居ユキさん、コシノジュンコさんらが参戦した。私もこの流れに乗ったわけだが、パリコレの内実が見えてくると「地に足の着いたビジネス」につなげるのがいかに難しいかがわかってきた。
翌年にはフランス人の気鋭プロモーター、ジャンジャック・ピカール氏に演出を依頼した。「もっと流行を取り入れましょう」という助言に従い、会場をホテルでなくナイトクラブにするなど、少し砕けた感じのショーに衣替えした。だがいくら試行錯誤を続けても、根本的な問題は解決しなかった。
「これでは自分ではなくなってしまうし、何も残らない。もう、お祭りの騒ぎは終わりだ」。通算5回のショーを終えた時点で、パリコレに出るのはやめようと決意した。奇をてらった提言重視型の服や、服作りの概念を破壊するような派手なショーだけがもてはやされるメディアの風潮にもほとほと嫌気が差していた。私の服作りの基本はあくまでもエレガンスなのだ。
再びチャンスが巡ってきたのは89年。パリの高級ブティック街フォーブル・サントノーレ34番地に直営店を開くことが出来たのだ。きっかけは1本の国際電話だった。「パリの一等地に買い得物件が売りに出ている。見ておかないと後悔するわよ」。懇意にしていたフィガロの女性記者が橋渡ししてくれた。
エルメスとイブ・サンローランに挟まれた店はだれでも欲しがる好立地。当時、日本はバブル経済の真っただ中で「ジャパンマネーの威力」などと騒がれた。だが、一流ブランドでも閉店を余儀なくされる激戦区で20年間、営業を続けている店は、今でも数えるほどしかない。
「地に足の着いたビジネスをファッションの本場、パリで体現してきたーー。私はひそかにこう自負している」


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単語

帯留め おびどめ
縮緬 ちりめん 表面に細かいしぼのある絹織物。縦糸に撚(よ)りのない生糸、横糸に強く撚りをかけた生糸を用いて平織りに製織したのち、ソーダをまぜた石鹸(せっけん)液で煮沸して縮ませ、精練したもの。
華々しい はなばなしい
立ちはだかる たちはだかる 手足を広げて、行く手をさえぎるように立つ。
三宅一生 みやけいっせい
山本寛斎 やまもとかんさい
内実 ないじつ
気鋭 きえい
砕ける くだける
衣替え ころもがえ
奇を衒う きをてらう
持て囃す もてはやす 口々に話題にしてさわぐ。ほめそやす。 
風潮 ふうちょう
嫌気が差す いやきがさす
エレガンス elegance 上品な美しさ。優雅。気品。典雅
懇意 こんい
真っ只中 まっただなか
密かに ひろかに

2009年12月2日星期三

高島屋離れ銀座に出店 正田夫人の支援、社交界に人脈

独り立ち
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私は皇太子妃、美智子さまの衣装デザイナーとして仕事をしている間も、高島屋から給料をもらっている状態だった。だが、それでは商品の販売先が高島屋に限られるし、自分の直営店も出せない。そこで独立する機会をうかがうことにした。
心がけたのは一歩ずつ段階を踏むこと。まず1973年(昭和48年)に東京・青山に直営店「ミセス アシダ」をオープンした。高島屋の「ジュン アシダ」とはあえてブランド名を変え、違う商品を扱うことで了承を得た。この店はよく繁盛し、私は独立に向けた確かな手応えをつかんだ
続いて高島屋を説得し、「ジュン アシダ」の商品を京王百貨店にも卸すことを認めてもらった。壁を越えると、チャンスは連鎖的に広がるものだ。やがて阪急百貨店にも商品が卸せるようになった。こうして実績を積み上げながら、ついに75年に高島屋からの独立を果たした。
念願の銀座ゆみき通りに2億7千万円で17坪弱(1坪は3.3平方メートル)の土地を買い、直営店を出したのはその翌年のことだ。買値は1坪1620万円。これは週刊誌に取り上げられるほど話題になった。資金はすべて銀行からの借り入れだったが、会社はグングンと成長を遂げた
直営店を出すメリットは大まかに3つある。
まずこちらが仕上げたい色やデザインを自由に打ち出せること。次に客の反応をじかにつかめること。そして利益率が高まることだ。高島屋の仕入れは買い取り制で、こちらの在庫リスクが抑えられる代わりに商品をどう売るかは高島屋の自由だ。しかもかなりのマージンも取られる。だが直営店をだせばこの構造は大きく変わる。
ついでだが、私はセールは一切せずに商品の97%を売り切ることを目標に掲げてきた。業界では生産量の3割が売れ残るのが常識。だが私はその基準を3割ではなく3%に設定した。生産量を絞り込んだのである。「もっとつくれば売れるのに」とも言われるが、量ではなく質では勝負してきた。商品への愛着が人一倍強いからかもしれない。
さて、銀座に直営店を出したころの年商は20億円弱。今が120億円だから6倍に拡大したことになる。「皇室デザイナー」としての実績が強力な後押しになったし、美智子さまの母上にあたる正田冨美子さんからも、特別な力添えをいただいたことが支えになったのは間違いない。
「世界に大きく羽ばたいてくださいね」。皇室デザイナーをやめた76年、美智子さまにこうおっしゃった。そして正田夫人からは「10年間、妃殿下がお世話になりました。これからは私が全面的に応援します」と激励された。お二人から温かい支援をいただけた私は、本当に幸せものである。
駐日大使夫妻を招いて作品を披露する現在の私のショー形式は、実は正田夫人のアイデアである。最初のショーのメーンゲストに正田夫人とホジソン駐日米大使夫人になって頂き、18カ国の大使夫妻を招待した。大使館には花文字と呼ばれる書体の招待状を送らないといけないなど外交マナーの基本もすべて正田夫人から教わった。
こうして「皇室デザイナー」をやめた私は、日本の社交界にも人脈とビジネスの根を何とか下ろすことができた。我が社の基盤はまさにこの時期に固まったのだ


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単語

正田冨美子 しょうだとみこ
繁盛 はんじょう
連鎖 れんさ
直に じかに
序 ついで
掲げる かかげる
羽ばたいて下さい はばたいて
激励 げきれい
根を下ろす

2009年12月1日星期二

礼服のファスナー壊れる 美智子さま、ミスに触れぬ心遣い

痛恨の失敗
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1966年(昭和41年)私は36歳で皇太子妃、美智子さまの衣装デザイナーとなった。東宮御所に頻繁に伺いながら、公務に必要なスーツやドレスなどを季節や場所、目的にを考慮しながら仕上げていく。常に国民やメディアのの関心を集めていたからどの角度から見ても、完璧な服作りを目指す必要があった。
通常、2、3着を並行して仕上げるが、多いときには10着ほどを同時に手がけることもあった。特に外遊など外交に日程と重なると寝る間もないほどの忙しさだ。毎朝、東宮御所の仮縫い室に入り、持参したデザイン画についてのご意見をお聞きする。それから鏡の前で採寸、仮縫いなど切れ間ない作業が続いた。
美智子さまのあふれるような気品、やさしさ、美しさを引き立てる洋服に仕上げるには、数ミリ単位の繊細な仕上げが必要になる。国家のメンツも関わってくる。それだけに重責とやりがいがある仕事だった。私は斎戒沐浴し、全精力を仕事に注ぎ込んだ。
皇室デザイナーは76年までの10年続けたことになる。その間、思い出は尽きないが、冷や汗をかいたあの失敗談だけは絶対に忘れられない。まさに顔面が蒼白になるような痛恨のミスだった。
「お帰りなさいませ。外遊はいかがでいらっしゃいましたでしょうか」
あるとき、美智子さまが外遊からご帰国されると、私はすぐに東宮御所にあいさつに伺った。美智子さまは普段と変わらない様子で、にこやかにやさしくねぎらいの言葉をかけてくださった。だが、面会が終わって仮縫い室を出ると、私は女官さんから呼び止められた。その方は外遊に随行されたメンバーだった。
「芦田さん。誠に申し上げにくいことですが、ちょっと、お話が・・・・・・」
実は、訪問先の晩餐会にご出席される直前、イブニングドレスのファスナーが壊れるというアクシデントが起きたのだという。それは襟ぐりを大きく取った夜会用の正式礼服(ローブ・デコルテ)。大切な公式行事で身に着ける衣装だった。機転を利かせた女官さんがうまく補修してくれたので、何とか大事には至らずに済んだそうだ。
私は言葉を失い、体中から冷や汗が噴出した。完全に私のミスである。でも、先ほどお会いした美智子さまは普段通りで、そんなそぶりをまったくお見せにならなかった。「なんというお優しさなのか・・・・・・」。私はその心遣いに深い感銘を受けた。
美智子さまから頂いた心温まるプレゼントも忘れることが出来ない。針刺しにハサミ用サックーー。
ともにご自身のお手製である。白と黒の千鳥格子で、縁には可憐な白い花の刺繍が施されている。衣装デザイナーである私への思いやりと真心が込められた最高の贈り物だ。我が家の家宝として大切にしまってある。
美智子さまは私の娘など家族の近況も細かく覚えていらして、会うたびに何かと優しいお言葉をかけてくださる思いだ。皇室デザイナーだった10年間は、私のじんせいで最も充実した記事だった。デザイナーとして、大きな自信と信頼を与えて頂いた。


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単語

痛恨 つうこん
皇太子妃 こうたいしひ
美智子 みちこ
外遊 がいゆう
重責 じゅうせき
斎戒沐浴 さいかいもくよく
冷や汗 ひやあせ
蒼白 そうはく
労い ねぎらい
随行 ずいこう
機転 きてん
素振り そぶり
感銘 かんめい
心温まる こころあたたまる
千鳥 ちどり
格子 こうし

弘宮さまの背広 初仕事 仏壇にたばこそなえ父母に報告

皇室デザイナー
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ある朝、高島屋に出社すると婦人服部長が血相を変えて駆け寄ってきた。「おい、芦田さん。大変なことになったよ。実は宮内庁から電話があって、弘宮さまの背広を作って欲しいと依頼されたんだ」とまくし立てる。「えっ、何だって」。私は思わず聞き返した。
宮内庁の関係者が「少女服」を見て気に入り、推薦してくれたのだという。欧州土産から発展した「少女服」が、思わぬ幸運を運んできてくれた。「とにかく、東宮御所に伺って、皇太子妃の美智子さまと面会して欲しい」。婦人服部長の顔も心なしか上気していた。
身に余る光栄だった。でも美智子さまと面会なんて、一体、どんな服装をして、何を話せばいいのだろう。皆目、見当が付かなかった。とりあえず黒いスーツに地味めのネクタイを身につけ、高島屋が用意した黒塗りのハイヤーに乗って、東京・元赤坂にある東宮御所に向かった。
警備員が敬礼し、鬱蒼とした林の中をなだらかなアスファルトの坂道が続いている。私は身が引き締まるような緊張感を覚えた。東宮御所に入り仮縫い室に案内された。10畳ほどの室内に大ぶりの鏡や応接セットなどが置かれ、静寂の空気に包まれていた。
しばらくするとドアがゆっくりと開き、美智子さまが入ってこられた。
「芦田でございます。このたびは弘宮さまのお洋服を仕立てることになりました。お目にかかれて光栄です。」
私が深々と頭を下げると、美智子さまは優しい笑みを浮かべながら頷かれた。その瞬間、清楚なバラの花のような気品が漂い、私は目がくらみそうになった。
 「こちらこそ、よろしくお願いします。どんな洋服が出来るか楽しみですね」
自己紹介や雑談などで30分ほどがあっという間に過ぎた。夢のような時間だった。帰り際に、女官さんからお土産として白い箱に入ったたばこをいただいた。たばこには菊の花のマークが入っていた。私はそれを自宅に持ち帰り、真っ先に仏壇に供えて天国にいる父と母に報告した。
弘宮さまに仕立てたお洋服はダブルのスーツだった。そのハンサムな弘宮さまの姿の凛々しかったこと!私はまず採寸し、仮縫いを1、2回してから洋服を仕上げた。スーツの出来栄えに美智子さまも弘宮さまも大変満足されたようだった。
まだ赤ちゃんだった弟の礼宮さまのお洋服を仕立てたこともある。まさか仮縫いにはピンを使うわけにも行かず、セロハンテープで代用した。でも礼宮さまが元気に動き回るのでセロハンテープがどうしても外れてしまう。何度もやり直したのをいまでも懐かしく思い出す。
「芦田さん。今度、私が着るお洋服の仕立てもお願いしてもよろしいかしら」
やがて、美智子さまからこんなご依頼を頂いたときは、まるで天にも舞い上がりそうなくらいの喜びを覚えた。人生で最高の瞬間だった。大学も満足に出ていな い私が、皇太子妃の衣装を作るなんて・・・・・・。父や母が生きていたらどんなに喜んだことだろう。今までの苦労が報われた気がした。
「ありがたき幸せです。謹んでお受け致します。」目頭がジーンと熱くなるような感慨をかみ締めた。


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単語

弘宮 ひろのみや
血相 けっそう
宮内庁 くないちょう
捲くし立てる まくしたてる
心成しか こころなしか
皆目 皆目
地味め
ハイヤー
鬱蒼 うっそう
なだらか なだらかな坂
大振り おおぶり 大型
静寂 せいじゃく
眩み くらみ
採寸 さいすん
仮縫い かりぬい
セロハンテープ = セロテープ
報う むくう
感慨 かんがい

「そんな言い草があるか」 高島屋・伊勢丹に二股を謝罪

二人の恩人
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「なぜオレに黙って抜け駆けしたんだ。しかも、よりによってライバルの伊勢丹に!」。高島屋取締役の仲原利男さんは私に掴みかからんばかりの剣幕だった。私を高島屋に引っ張ってくれたのは仲原さんである。まさに飼い犬に手を噛まれたような心境だったろう。
私は懸命に訴えた。「『少女服』の絶対的な販売量が足りません。私は目先の利益が欲しいのではありません。ビジネスとして軌道に乗せたいのです。これは必 ず世の中の家族の役に立つ商品です」。だが、仲原さんの怒りは収まらない。周囲にいた部長クラスもハラハラしながら行先を見守っていた。
私はなおも説得を続けた。
「伊勢丹に売れば生産コストが下がり、高島屋にも利益になる。価格が抑えられればお客様も喜び、一石二鳥にも三鳥にもなるでしょう」
「でもウチとの契約があるだろう。それはどうなる」
「婦人服については高島屋の専属としてきちんと仕事をします。でも『少女服』は契約にふばらないで縛らないで下さい。自由にやらせてください」
その言葉を聞き終わらないうちに、仲原さんは目の前の灰皿をバーンと私の方に投げつけた。たばこの灰が机の上に舞い上がった。
「ふざけるな!そんな言い草があるか」
当然の言い分だった。私に非があるのは明らかだった。長く、重苦しい沈黙が流れた。もう可能性はない。黙って引き下がろう。これ以上、なるべきではない。世話になってきた仲原さんの恩を仇で返してはならない。こう悟った私は口を開いた。
「分かりました。伊勢丹には断りの連絡を入れます。今後は心を入れ替えて、仕事に尽くします。どうも申し訳ありませんでした」
仲原さんはホーッと長いため息を吐いた。ようやく落ち着いたようだった。
「繰り返すが、伊勢丹への販売はやめてくれ。だが、高島屋が全社を挙げて『少女服』を支援する。よろしく頼んだぞ」。親分肌の仲原さんにいつもの快活な笑顔が戻った。私は深々と頭を下げ、その場を退席した。
次は伊勢丹に謝罪に行かねばならない。面会を求めたのは伊勢丹取締役の山中鏆さんだ。それまで仕事上の取引はなかったが、テレビ番組を通じて知り合い、今 回の件でもエールを送ってくれていた。山中さんは後に伊勢丹専務を経て、松屋と東武百貨店の社長に就任し、「ミスター百貨店」の異名を取る人物だ。
この時、伊勢丹は「少女服」を発売するために、東京・青山で新設店舗の工事をかなり進めていた。
「このたびは誠に申し訳ありません。実は『少女服』を伊勢丹から売ることが出来なくなりました」
私はそれまで伏せていた経緯を正直に打ち明けた。
「そうだったのか。それは仲原さんが怒るのも最もな話だ。この話はやめにしようや」
山中さんはそう言って、話を引き取った。店舗の件では損害が出たに違いないが、一切口にしなかった。実にほろ苦い経験だった。仲原さんと山中さんーー。私は男気あふれる2人のリーダーの人情に触れた。今でも忘れられないビジネスの恩人である。


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単語

言い草 いいぐさ
よりによって
かからんばかり
剣幕 けんまく
懸命 けんめい
ハラハラ
仇 あだ
深々と しんしんと
ほろ苦い ほろにがい
男気 おとこぎ

娘への土産がヒントに 伊勢丹への"抜け駆け"ばれる

少女服
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「パリの百貨店プランタンからこないかと誘われている。どうしましょうか」。欧州視察を終えて帰国した私は、高島屋の幹部に伺いを立ててみた。「プランタンと高島屋は友好関係にあり、ひょっとしたら道が開けるかもしれない」という淡い期待があったからだ。だが烈火のごとく怒られた。
「冗談じゃない。パリの百貨店のために君を視察旅行させたわけじゃないんだ。今後も高島屋のために力を尽くして欲しい」。もともと期待半分、あきらめ半分といったところだから「やはりそうだよな」というのが本心だった。むしろ怒られて、ホッとした気持ちもあった。
私はそれまで以上の勢いで仕事に邁進した。ところで、2ヵ月の欧州視察は私に思わぬ副産物をもたらしていた。娘に着せようとせっせと買い漁ってきた子供服である。ダンボール3箱分もある商品に改めて目を凝らすと、驚かされることが実に多かった。最も感心したのはその服作りの哲学だった。
たとえば3歳用の服には、腰の切り替えの部分に10センチほどの縫い代がたっぷりと織り込んである。これだと、子供の体が大きくなっても、縫い代を少しずつ出せば全体のバランスを損なわずに美しく着られる。日本にはない発想だった。上質なものを大切に長く着る。そこには大人から子供への愛情も込められている。目からウロコが落ちる思いだった。
「そんな思想を生かして、正統な子供服を高島屋でデザインできないものか」。私はこう考えるようになった。自分の娘に着せたいという親の愛情を生かせば素晴らしい商品が出来るはずだ。この提案に高島屋も飛び付いた。1965年(昭和40年)、ブランド名を「少女服」とし、高島屋から売り出すことが決まった。
「少女服」の対象は6歳から13歳。この辺りの年齢層の服が手薄だったから、「少女服」はまずまずの売れ行きを見せた。ところがすぐに問題が表面化した。手間がかかりすぎて利益が出にくいのだ。縫製の手間は大人向けと変わらないが、サイズが多いので品番あたりの販売量がどうしても伸び悩んでしまう。
つまり、絶対的な販売量が足りなかった。一生のうちでも最も体格が変わるこの時期に、一般家庭では被服費に多くの金をかけようとはしない。悩ましいジレンマだった。でも、私は「少女服」のビジネスをなんとしても軌道に乗せたかった。「世の中のために役に立つはずだ」という確信があったからだ。
そこで一計を案じた。販売先を高島屋以外にも広げることにしたのだ。ほかでもないライバルの伊勢丹に・・・・・・。実は「ウチで扱いたい」という内々の打診が伊勢丹からきていた。東京・青山に売り場を用意してくれるという。私にとっては魅力的な提案だった。売り込みにかける伊勢丹の熱意も感じた。
「高島屋とは婦人服のデザイナーとして契約しているのであり、子供服のデザイナーとしては契約していない」ーー。
私はこう言い張ることにした。これは、ほとんど"こじつけ"に近い屁理屈である。この抜け駆け計画は、まもなく高島屋の経営陣の耳に入る。すぐに私は本社から呼び出しを受けた。
役員室に入ると、いつも世話になっている取締役の仲原利男さんが顔を真っ赤にして立っていた。


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単語

抜け駆け ぬけがけ
プランタン
伺いを立ててみる
縫い代 ぬいしろ
目からウロコが落ちる
まずまず
売れ行き うれゆき
縫製 ほうせい
品番 しなばん
ジレンマ
こじつけ