2009年11月27日星期五

2009年11月25日星期三

「パリで働いてみないか」 語学研修条件、仏百貨店が誘い

欧州視察
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飛行機の窓から外をのぞくと、見慣れた東京の街がゆっくりと雲間に消えていった。胸がドキドキと高鳴り、気分が高揚してくる。「これから何でも見聞きし、貪欲に吸収してやるぞ」。羽田空港から飛び立った私は心の中でつぶやいた。
1963年(昭和38年)1月の肌寒い日。私は旅行社が募ったファッション視察団に参加し、あこがれの欧州に初めて向かった。すでに高島屋のデザイナーとして実績は残していたが、自分の力が本場でも通用するのかをこの目で確かめたくなったのだ。
2ヶ月、仕事を休んだ。高島屋はその間の費用も給料も出してくれた。渡航先はオランダ、英国、フランス、スペイン、イタリアなど。でも最も印象深いのはパリだった。まず町並みの美しさに心を奪われた。高さや色が見事に統一され、広場は噴水や花壇で華麗に飾られている。
威風堂々としたシャンゼリゼ通りにも圧倒された。一流ブティックが集まるフォープル・サントノーレ通りのそぞろ歩きには心が浮き立った。待ちにはシックに着飾ったマダムが行き交い、洗練された様々な洋服が店先を鮮やかに彩っていた。パリの街全体がショーウインドーだった。
「娘に着せたいなあ」。店先を覗くたびに気になったのが子供服だ。イカリのマークが入った赤と白の水兵服、真っ白ななめし革のスカート・・・・・・。日本に残してきた2歳の娘のために私はせっせと買い漁った。2ヶ月間でダンボールに3箱もたまり、持ち帰るのに苦労したほどだ。
さて、私はころあいを見計らい、オペラ座近くにある老舗百貨店プランタンを訪ねてみた。日本から用意してきたデザイン画を見てもらうためだ。デザイン室で面談した担当者は作品に丹念に目を通すと、私に笑顔を向けた。「素晴らしい出来栄えだ。これならパリでも十分通用するよ。今すぐにここで働かないか」
驚いたのは私のほうだった。具体的な給与額までその場で提示されたのだ。思わぬ急展開に私は当惑した。
「ただし」と相手は続けた。「問題はあなたの語学力。職場では議論が中心だから、言葉がわからないと仕事にならない。語学学校でフランス語をみっちりと鍛えること。これが入社の条件です」。私は回答を保留し、渋滞先のホテルに引き返した。
「へえ、そんなに給料をもらえるの?すごいじゃない。パリに出てこいよ」。以前からの友人でパリの有名工房で就業していた防止デザイナー、平田暁夫さんに話すと、自分のことのように喜んでくれた。私の心は激しく揺れた。とにかく帰国し、よく考えてから答えを出すことにした。
ところで海外暮らしが長くなると、どうしても恋しくなるのが和食である。パリ滞在中、いつもお世話になったのがモンパルナスにあった平田さんの自宅だった。焼き魚にみそ汁、ご飯など奥さんの手料理に舌鼓を打った。こうして2ヶ月はあっという間に過ぎた。実り多き旅は終わり、私は帰国の途についた。
羽田空港に着くと妻と娘が出迎えに来ていた。久々の家族の対面である。「おーい、今帰ったよ」と娘に手を振ると、「え?どこのオジチャマ」と首を傾げている。絶句した。2ヶ月間、会わないうちに娘は私のことをすっかり忘れてしまっていた。


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単語

雲間 くもま
見聞きす みききす
貪欲 どんよく
渡航先 とこうさき
噴水 ふんすい
花壇 かだん
威風堂々 いふうどうどう
漫ろ歩く そぞろあるく
行き交う いきかう
せっせと
見計らう みはからう
丹念 たんねん
出来栄え できばえ
当惑 とうわく
平田暁夫 ひらたあきお
舌鼓 したつづみ
傾げる かしげる
絶句 ぜっく

2009年11月24日星期二

高級既製服を世に問う 数十億円の仕事、分刻みで働く

高島屋
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1960年(昭和35年)日米安保条約の改定で世の中は騒然とし、池田勇人内閣が「所得倍増計画」を声高に叫んでいた。「もはや戦後ではない」と経済白書がうたったのが4年前のことだ。高度成長、大量消費時代を迎え、日本のファッション界にも改革の風が吹き込んでいた。この年、私の人生で重要な出来ことが2つ重なった。1つは後輩デザイナーだった富田友子との結婚。もう1つは、高島屋とデザイナー契約を結んだことだ。そのころの百貨店は、一般にはまだ耳慣れない「プレタポルテ(高級既製服)」の分野を強化しようとしている時期だった。
それまで、洋服は布地を買って自分で作るか、洋装店で仕立てるかしかなかった。デザイナーと言えば、流行服の写真が載ったスタイルブックをパラパラとめくりながら、「袖はこのディオール風で、襟はこのサンローラン風で仕上げましょうか」などと欧米デザイナーの作品をコピーするのが関の山だった。
「だが、これからはデザイナーの時代になる。百貨店のオリジナルを作れる人材を探せ」。こんな方針を打ち出した高島屋が目をつけたのが私だった。ジョンストン自体に高島屋にはすでに私のコーナーがあり、商品がよく売れていたからだろう。私を引き立ててくれたのは東京店の営業部長で、後に高島屋専務になる仲原利男さんだった。
勤務は1日おきの週3日制。残りは自分が抱える顧客をこなすという「二足の草鞋」状態だった。だが15年続いたこの高島時代に、今のファッションデザイナー、芦田淳が作られたといってもよい。デザインや色、生地、売り場の展示法まで一切を任され、ビジネスの基本をみっちりと叩き込まれた。
たとえば次のテーマは「ジュネス(仏語で青春)」で行こうと社内で決まる。すると私が色や素材を選び、服をデザインし、高島屋の全店で販売するのだ。数十億円規模のビジネスである。責任は重大だ。だが自分のアイデアを世に問い、その結果を肌で確認できるやりがいがあった。
出勤日は朝から深夜まで分刻みの忙しさだった。
「来シーズンはこんな商品を企画してほしい」
「どんな色をいくつ仕入れたらいいか相談したい」
婦人服、紳士服、運動着、子供服、下着、ネクタイ・・・・・・。各部門の責任者や担当者との打ち合わせが、切れ目なく入る。その間に各階の売り場を巡回し、客の反応や売れ行きにも細かく目を配った。
すっかり疲れ果てて深夜中に帰宅すると、翌日昼まで泥のように眠った。でも「オレが店を支えているんだ。陰の社長なんだ」くらいの自負心があった。合言葉は「伊勢丹や西武百貨店に負けるな」。社員が一丸となり、全社挙げて戦闘体制に入っていた。
有志による勉強会にも参加した。売り場の課長レベルと週1回、仕事が終わった後に議論する。「ファッションの未来とは」「百貨店が向かうべき方向とは」。夜遅くまで意見を激しくぶつけ合った。仲原さんはそんな様子に目を細めながら、全面的に支援してくれた。
ファッション界には新たなビジネスの地平を切り開こうという活気があふれていた。こうした渦の中から多くの男性デザイナーが生まれたのだ。私もその一人だった。


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単語

池田勇人 いけだはやと
声高 こわだか
布地 ぬのじ
捲る めくる
袖 そで
襟 えり
仲原利男 なかはらとしお
二足の草鞋 にそくのわらじ
仏語 ぶつご
分刻み ふんきざみ
売れ行き うれいき
伊勢丹 いせたん
渦 うず

2009年11月21日星期六

「その婚約、破棄してくれ」 貯金なく、指輪はトルコ石

略奪愛
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独り身で外食に飽きていた私は、3歳下の後輩デザイナー、富田知子の家に呼ばれて、頻繁に食事を共にするようになっていた。とは言っても兄と妹とのような関係で、まだはっきりした恋愛感情のようなものはない。
日本橋で有名な紳士服店を営んでいたこともある資産家だった。父は2枚目の歌舞伎役者のような優男。 母は気風の良い姉御肌。ともに大変な食道楽で、「いつもごちそうになります」と私が顔を見せると、目を細めながら、四節折々の旬の食材を使ったおいしい料理を出してくれた。
後で聞いた話だが、物怖じせずに他人の家に上がりこみ、ズケズケといいたいことを言う私のことを、義父は「決して二枚目ではないが、ああいう男は出世するぞ」と褒めてくれていたらしい。義父とは対照的な無粋なところが見込まれたのかもしれない。
ジョンストンは社員30人くらいの会社でデザイナーは友子も含めて7人ほど。会社では上司と部下だが、年は3つしか離れていないから友人のようなものだ。一緒に食事したり、飲みに行ったり、仕事や見合いの相談に乗ったりという状態が続いていた。
そんなある日、友子が改まった表情で「話があるの」と声をかけてきた。聞いてみると「ある男性と婚約を交わし、挙式する準備を進めている。だからウエディングトレスをあなたにデザインしてほしい」という。すでに日取りも決まっていた。私は、いきなり横っ面をぶん殴られたような衝撃を覚えた。
「落ち着け。落ち着け」。自らに言い聞かせた。妹のように思っていたあの友子が他人のものになってしまう。それは寂しいことではないか。いや、いや、寂しいどころではない。これは絶対に受け入れてはいけない事態だぞ!その瞬間、私は友子への熱い感情に初めて気付いた。そして、土壇場に追い込まれた自分の窮状も悟った。
しばらく黙考した後、意を決して友子に言った。「その婚約、破棄してくれないか。君と結婚したいんだ!」。私の唐突の申し出に友子は驚き、首を振った。「ダメよ。もう式場も予約し、招待状も印刷しているんだから」。「分かった。とにかくご両親に相談しよう」。私は居ても立っても居られず、友子の実家に向かった。
両親は私の言葉にじっと耳を傾けていた。やがて義母が居住まいをただしながら口を開いた。「事情は良く分かりました。招待状はすでに印刷していますが、こちらで何とかとめさせましょう。2人とも決心はいいですね。実は私たちも、かねがね2人が一緒になるのがいいと思っていたのですよ」。凛とした口調が広間に響き渡った。
私は胸をなでおろした。だが、いざ結婚が決まってみてハタと困った。浪費続きで婚約指輪を買う金がなかったのだ。「申し訳ありません、実は私には貯金がないのです。今買えるのはせいぜいトルコ石くらいです」。正直に打ち明けると、義母は笑いながら「お金なんて問題ではありませんよ。これから立派になって、おおきなダイヤでも買ってやってくださいな」とからりといってのけた。
1960年(昭和35年)3月15日。私と友子ははれて結婚した。この結婚を機に、私の人生の運気は一気に上昇する。


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単語

略奪 りゃくだつ
営む いとなむ
優男 やさおとこ
気風 きっぷ
姉御肌 あねごはだ
食道楽 くいどうらく
四節折々 しせつおりおり
物怖じせず ものおじせず
義父 ぎふ
義母 ぎぼ
無粋 ぶすい
日取り ひどり
横っ面 よこっつら
打ん殴らせた ぶんなぐられた
土壇場 どたんば
窮状 きゅうじょう
悟る さとる
黙考 もっこう
居住まい いずまい
正す ただす
かねがね ー 以前からずっと
胸を撫で下ろす むねをなでおろす
ハタと困る ー 突然 困る
晴れて ー 世間に正式に認められて、もうだれにも遠慮する必要のないさま。公然と。

2009年11月19日星期四

宵越しのカネは持たず 母の急死後、表参道に引っ越し

気ままな独身
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私は東京・人形町にあるアパレルメーカー「ジョンストン」に移った。紳士服メーカーだったが、「婦人服を本格的に手がけたい」 というオーナーの意向で私に白羽の矢が立ったのだ。
入社するとすぐ高島屋の店舗に「キュート・コーナー」という私の売り場ができた。ジョンストンの看板デザイナーとして、私は驚くほどの高給をもらった。ほかにファッション雑誌への掲載料など副収入もあったから、独り身には十分すぎるほどの額だった。
そこで東京・下落合に念願の一軒家を借り上げ、母や戦争未亡人になっていた長姉、その息子たちを呼び寄せて一緒に暮らすことにした。病弱な母のために風呂も増築しった。こうして曲がりなりにも、「自分の城」を手に入れたのだ。家は急ににぎやかになり、私は一家の生活を支える大黒柱になった。
だが、その状態も、つかの間で終止符を打つ。1957年(昭和32年)に母が69歳で急死したからだ。その前夜、不思議な予兆があった。襖一枚隔てた隣から「ヒトシー」という叫び声が聞こえたのだ。急いで様子を見に行くと母の寝言だった。当時、離れて暮らしていた四兄、等の夢を見たという。
そして翌朝、姉が食事を運ぼうとして母の部屋に入ると、母は既に息を引き取っていた。心臓疾患による病死だった。抱きしめると、まだぬくもりがあった。父の病死後、兄弟姉妹の元を転々としながら女手一つで私を育ててくれた母。死に顔が安らかだったのが心の救いだった。私は心づくしの葬式を挙げ、母を天国に送り出した。
母の死後、私は長姉の家族と別れ、一人暮らしを始めた。「今度はデザイナーらしいオシャレな暮らしがしたいな」と思って、表参道にある外国人向けの平屋住宅に引っ越した。2LDKで、寝室や浴室がやけに広いホテルのような家だった。そんな生活感のない部屋で、私の気ままな独身生活が始まった。
朝は渋谷の小粋なレストランでトーストとコーヒーの朝食。夜は繁華街のディスコやナイトクラブを遊び歩く。赤坂のナイトクラブ「コパカバーナ」や新橋のダンスホール「フロリダ」には良く通った。
そして最後には六本木の中華レストラン「皇妃園」でお開き。こんな毎日が続いた。「宵越しのカネは持たない」という矜持だった。
だが外食ばかりが続くとどうしても飽きてくる。「たまには焼き魚をたべたいなぁ」と思って、魚屋でサバを丸ごと1匹買ったが、裁き方がさっぱり分からない。仕方がないから冷蔵庫に入れて放っておいたら、後で水分が抜けてすっかり干かびたら”サバのミイラ”をみつけて、肝をつぶしたこともある。
そんなころ、ジョンストンに運命の女性が颯爽と現れた。新入りデザイナーとして採用された富田友子。今の伴侶である。当時、私は雑誌にも取り上げられる有名人だったから、友子の方は「芦田淳ってどんな人かしら」 と興味津々だったようだ。
だが私の方は「鼻持ちならないお嬢様が入ってきたな」くらいにしか思っていない。ところが、ある劇的な”告白”をきっかけに私の気持ちは急速に友子に傾いていく。

2009年11月18日星期三

ヒット連発、銀座で評判 雑誌掲載、社内でやっかみも

人気デザイナー
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1953年(昭和28年)、初めて就職した「ミクラ」は、後にパリで活躍する高田賢三さんも在籍する既製服メーカーである。ただ当時はデザイナーが7,8人程度で、畳の上で仕事をするような小さな会社だった。
「よし、これなら売れるぞ。すぐに量産にかかれ!」
「あ、これはダメだな。残念ながらボツ!」
毎朝、会議室ではこんな言葉が威勢良く飛び交っていた。ミクラでは、まずデザイナーが見本をつくって会議室で発表し、営業マンが皆の前で本格生産に入るかどうかを判断するやり方だった。デザイナーの実力がそのまま問われる弱肉強食の世界である。
だが、私の服は良く売れた。最初から圧倒的な人気を博したのだ。新人にもかかわらず、あれよあれよという間にデザイナ部長に昇格した。幼いころから兄嫁たちの舶来の洋服やファッション雑誌をみて育ったことや、中原淳一先生に直接鍛えられてきたことのおかげだろう。
私の作品はすぐに評判を呼び、女性誌「婦人画報」などのメディアに大きく取り上げられるようになった。自分の作品が、有名デザイナーの田中千代さんと並んで掲載された時には、飛び上がらんばかりに喜んだ。若い私は次第に有頂天になっていた。
すると、社内から私を糾弾する声が上がり始めた。「会社の生地で服を作り、雑誌を通じて売名行為をしている」というのだ。まったくの濡れ衣だった。おそらく、私へのやっかみもあったのだろう。そんな時、「ひつじや」という別の会社のオーナーが私をスカウトしてくれた。
銀座の生地専門店で、8丁目の大きなウインドーに斬新な服を並べることで知られていた。「よし、やってやるぞ」。私は奮い立った。ここでも私の服は飛ぶように売れた。つくればつくっただけ売れるような状態だった。
当時、街角には高峰秀子さんや笠置シヅ子さんらの弾むような歌声が響いていた。
あの娘可愛いや カンカン娘 赤いブラウス サンダルはいて 誰を持つやら 銀座の街角 時計ながめて そわそわにやにや これが銀座の カンカン娘 ・・・・・・
銀座は流行の発信地だった。夕方になると、着飾った紳士淑女が派手なオープンカーで乗り付け、最先端のおしゃれを競い合う。リボンの付いた水玉模様のワンピース、パラシュートのようなサテン地のスカート、チェック柄のツイードのジャケット・・・・・・。人々は明るくモダンな洋服に夢中になっていた。
そんな銀座で私は評判の若手デザイナーになった。そうなると自然に金遣いも荒くなる。札束をポケットに突っ込んでは、友人を引き連れ、繁華街を練り歩くような日々が続いた。
ただ、どんなに給料が増えても、出るほうもドンドン増えるからカネは全くたまらない。楽天的な性格はこのころから変わらないようだ。
世の中にはまだ戦争の傷跡も残っていたが、人々は廃墟の中から逞しく立ち上がり、新たな価値観やライフスタイルを見つけ出そうと躍起になっていた。そんな人々の心の渇きを癒すのがファッションや娯楽だった。私はそんな心意気に燃えていた。


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単語

飛び交う とびかう
ボツ
博す はくす
舶来 はくらい
濡れ衣 ぬれぎぬ
奮い立つ ふるいたつ
飛び上がらんばかりに喜んだ
有頂天 うちょうてん
糾弾 きゅうだん
高峰秀子 たかみねひでこ
笠置シヅ子 たさぎしづこ
着飾る きかざる
紳士淑女 しんししゅくじょ
競い合う きそいあう
廃墟 はいきょ
逞しい たくましい
躍起 やっき

2009年11月17日星期二

ubuntuでRails環境を設定

sudo apt-get udpate
sudo gem update --system
sudo gem update --no-ri --no-rdoc
sudo gem install rails haml --no-ri --no-rdoc


vim-rails設定

sudo apt-get install vim-rails
vim-rails-setup

2009年11月16日星期一

義姉の和服、映画衣装に 乙羽信子さんらアトリエに集う

芸能界
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人気画家、中原淳一先生の正式スタッフになった私は毎日、張り切ってアトリエに通った。朝9時に顔を出し、夕方には帰るという勤務スタイルである。だが、いつまでたっても電話番や鉛筆削りしかさせてもらえない。私は欲求不満を募らせていた。
ある朝、アトリエに着くと、先生が浮かない顔をしている。理由を聞くと、「百万ドルのえくぼ」というキャッチコピーで売り出そうとしている新人女優、乙羽信子さんの映画衣装で悩んでいるという。令嬢役という設定だが、映画会社が用意した衣装ではどうもイメージが合わないらしかった。
「では、僕が用意しますよ。考えがあります」。私はなくなった三兄の妻の家に行き、和箪笥の中から映画の役柄に合いそうな着物や帯を4、5本を借りてきた。それを見るなり、先生は「そう、これだ」とひざを打って喜んだ。衣装問題はその場で解決。後ほど、乙羽さんからもお礼を言われた。
金沢時代、医者の娘だった兄嫁と暮らし、令嬢が実際に身に着ける着物を見てきた経験が役に立った。「仕事で貢献できた」。初めて手応えを感じた。先生との距離も急速に縮まったような気がする。そのうち、図に乗った私は、持ち前のずうずうしさを発揮するようになる。
「先生、男なのに、なぜパーマをかけてるんですか」。「底の高い靴なんか履いて、歩きにくくないですか」
よくもまあ、人気クリエーターに失礼な質問をズケズケと言えたものだ。先生もさすがに不機嫌そうな顔でこうつぶやいた。「アプレゲール(戦後派=アメリカ文化の影響を受けた若者)という言葉があるけど、君を見て、初めてその意味が分かったよ・・・・・・」
アトリエには乙羽さんのほか司葉子さん、岸恵子さん、高峰秀子さんら多くの人気女優が出入りしていた。やがて、先生は日活の看板女優となる浅丘ルリ子さんも見いだす。日本の芸能界や流行をけん引しようという活気が、アトリエにはあふれていた。
先生は三度の飯より仕事が好きだった。分野は雑誌、映画、服飾など多肢にわたり、睡眠時間はおそらく2、3時間しかなかったと思う。こんなエピソードがある。私が夕方、「失礼します」と退社し、翌朝、再びアトリエに出社してみると驚いた。先生は昨日とまったく同じ姿勢で、まだ仕事を続けているのだ。
「先生、朝食は取ったんですか。顔は洗いましたか」。あきれて尋ねると「ああ、そうか・・・・・・」などといいながらようやく腰を上げ、手水鉢でチョチョッと顔を洗う。そして5分で食事を済ませると、すぐ机に向かってしまうのだ。まるで命を削りながら仕事しているように見えた。
私は「ヴォーグ」などファッション雑誌を参考にしてデザイン画を描き、先生に指導してもらっていた。正式スタッフとはいえ、こちらが授業料を払わなければいけないような状態だった。そんな内弟子時代が2年続く。巣立ちの季節が近付いていた。
やがて先生がパリに旅立ったのを機に、私は東京・茅場町にある「ミクラ」という小さいなアパレルメーカーに就職する。デザイン画を見せると、すぐに採用通知が来た。1953年(昭和28年)。私は23歳になっていた。

師の指導プロの技見た 金はないけど夢へと走る

見習い時代
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破れた窓ガラスからすき間風が吹き込んできた。ささくれ立った畳が蛍光灯の明かりに照らされている。1949年(昭和24年)、高校3年の冬。私は急死した三兄の家を出て、伯父が東京・目白で経営していた種苗会社の社員寮で一人暮らしを始めた。「体に気をつけてね。困ったらすぐに知らせるのよ」。母は私を不憫に思ったのだろう。部屋には不釣合いなくらいの立派な金襴緞子の布団をお持たせてくれた。毎晩、それで眠ると、母の愛情にくるまれているような気がして、体も心も芯から温かかった。
売れっ子画家、中原淳一先生からの個人指導を許された私は大学進学をやめ、デザイン画を描き続けた。そして、毎日のようにアトリエに電話をかけた。だが先生は仕事に忙殺されており、なかなか時間がもらえない。よくても週1回程度。2、3週間会えないこともザラだった。
ただ、限られた先生の指導は中身が濃かった。私が作品を見せると「このポーズは動きに乏しいな」「右足の重心のかけ方がおかしいよ」などとつぶやきながら、鉛筆でササッと手を入れる。するとどうだろう。モデルの手足が動き出し、洋服のデザインがみるみる輝き始めたのだ。一流のプロの技に脱帽した。
先生は白い紙の上にペンを走らせ、フリーハンドで直線や曲線を描く。まるで製図道具のような正確さだ。絵だけではない。雑誌の紙面構成から衣装、さらにモデルや掲載する文学作品、作家の選択まですべて独りでこなした。その縦横無尽の仕事ぶりに私は舌を巻いた。
初めて足を踏み入れたアトリエにも興味津々だった。サロンでは出版社の編集者が数人寝泊りし、絵や原稿が仕上がるの待ち構えていた。人気女優、モデルらも打ち合わせや写真撮影で頻繁に出入りしていた。「これが時代の流行を生み出す舞台裏なのか」。私は目を見張った。
高校を卒業すると、東京・銀座の専門学校にも通った。デッサンを勉強するためだ。女性の裸体を描くのある。なにしろ大学に入っていないし、先生にも頻繁にはあえないから、時間だけは十分に会った。骨格や筋肉の動き、体のバランスの取り方など基礎知識を夢中で学んだ。
見習い時代。まだ仕事はしていないので、贅沢をするカネはない。明日のパンを買うカネすらないことも珍しくなかった。冬になれば雪が靴の中に入り込み、寒さで足先が凍りついた。寒空を見上げては「ああ、新しいゴム靴が買えたらなあ」とどれほど思っことか。ただ夢にむかって走っているという実感だけはあった。だから、決してつらくはなかった。
転機は2年ほどでやってくる。先生の夫人で宝塚歌劇団の元スター、葦原邦子さんから突然、電話が入ったのだ。「主人があなたのことをとても気に入っているの。今後、仕事を手伝ってもらえないかしら」。内弟子にならないかという打診である。給与も出るという。願ってもないチャンスが舞い込んできた。
「ありがとうございます。こちらこそ、宜しくお願いします」。反射的に頭を下げていた。目の前に新しい世界が開けてゆくのを感じた。私は中原淳一先生の正式スタッフとして採用されて、アトリエに毎日、通うことになった。

2009年11月13日星期五

才能信じ弟子入り直訴 兄とは別の道で、反発心バネに

中原淳一
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「中原淳一」といえば女性向け雑誌「それいゆ」や「ひまわり」を創刊した売れっ子画家。憂いを帯びた瞳が印象的な少女の挿絵や服飾、随筆は女性たちに「心の美しさ」を呼びかけ、多大な影響を与え続けた。
ファッションデザイナーを目指す私にとっても、憧れの存在だった。
大学に進学すべきか、それともデザイナーになるべきか。高校生の私はそろそろ将来の進路を決めなければならない時期に差し掛かっていた。まず自分にそれだけの才能があるのかどうかを見極めなければいけない。
そこで描きためたデザイン画を携え、中原先生の自宅に押しかけてみることにした。デザイナーとして自分に可能性があるかを、どうしてもじかに尋ねたかったのだ。私は東京・江古田の自宅兼アトリエを訪ね、思い切って玄関の呼び鈴を押した。
「先生はご在宅ですか。デザイン画を見て頂きたいのですが・・・・・・」。しばらくするとお手伝いさんが顔を出し、「申し訳ありません。中原は留守です。どうかお引り取りください」と丁寧に頭を下げた。「明日ならいますか」「いつなら見てもらえますか」 。私も必死で食い下がるが、取り合ってはもらえない。
それでもあきらめきれない私は、ある日、新聞で先生が講演会をするという広告を見にし、「よし、直接交渉に行こう」と覚悟を決めた。会場に着くと、黒塗りの自動車がズラリと並んでいる。その中から「ひまわり」と書かれた旗をつけた自動車を探し出し、立ったまま待ち続けた。
やがて小奇麗なジャケットを着た先生が現れた。私は付き人の制止を振り切り、慌てて声をかけた。「お願いします。私が描いたデザイン画を見てください」。最初、先生は驚いた表情を浮かべたが、私の必死な形相に気づき、それから、差し出されたデザイン画に視線を落とした。
「分かりました。さあ、クルマにお乗りなさい」。秘書がせかすのを制し、私を自動車に招き入れてくれた。
先生は30枚程度の私の作品をじっくり見てくれた。「これはあなたのアイデアですか」「服もあなたのデザインですか」。穏やかな口調で質問されるたびに私はうなずいた。やがて、先生は私の目を見据えてこう言った。
「あなたには才能があります。ただこの道は決して甘くはないですよ。それでも、やり遂げる覚悟があるなら指導してあげましょう。いつでもここに電話をください。」そう言って、連絡先を書いたメモを差し出してくれた。その瞬間、明るい太陽の光が差し込んできたような、天にも昇るような心持になった。
憧れのスターに才能を認められたという事実に心が弾んだ。よし、これで踏ん切りがついた。もう大学進学はやめよう。「僕は中原淳一の弟子になります」。親族の前でこう宣言すると、皆が色めきたった。「何だって?大学に行かなかったら、まともな人間にはならんぞ」「男のくせに女の服を作るなんて恥ずかしい」
だがどんなに反対されようと、自分の意思は揺るがなかった。兄達が一流大学を出ているなら、自分は別の道で一流になってみせる。そんな反発心がバネになった。私はデザイナーとして活躍する日を夢見ながら毎日、デザイン画の練習に励んだ。

2009年11月12日星期四

「自由に生きる」涙の決意 思い知った人生のはかなさ

三兄の急死
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芦田家には兄弟が集まると必ず始まる伝統行事がある。酒を飲みながら、旧制高校の寮歌を手を打ち鳴らし、大声で合唱するのだ。長兄は六高、三兄は五高、四兄は四高とそれぞれ母校の寮歌を歌った。次兄も負けじと早稲田の校歌を披露した。
この伝統行事は長兄が戦死した後も続く。私はそんな兄達の学歴意識に猛烈な反発心を抱いた。私立の東京高校に進学した私は、まず小学校で肋膜炎を患ったこと、さらに疎開先の山口で英語の授業について行けなかったことが理由で、同期よりも2年も進級が遅れていた。
多摩川のほとりに立つ学校は自然に恵まれたすばらしい環境だった。春になると桜の花が咲き誇り、さわやかな風が頬をなでる。私はこの風景を愛した。土手に座り、滔々と流れる川面を眺めながら、親友と人生や哲学について語り合った。
「オレは大学に行って哲学をやりたいな。芦田は将来、何になるつもりだ?」
「絵が好きだから、大学には行かずにデザイナーにでもなろうかな」
早く自立したいと考えた私は、自分の夢を親友に包み隠さず打ち明けた。大学に進学しないなどと兄には絶対に話せなかったが、親友にはすべてをさらけ出すことができた。真っ赤な夕日に染まった多摩川の土手をみるたびに、そんな青春の記憶が鮮やかによみがえる。
やがて高校3年になり、大学に進学すべきか、デザイナーになるべきかを真剣に悩み始めていたころ、家族にとって大事件が起きた。母と居候していた家の主である、後見人でもあった三兄が急死したのだ。あれだけ元気だった兄が・・・・・・。皆、言葉を失った。
厚生省に勤める三兄は仕事の虫だった。過労がたたったのだろう。ある日、腸チフスを患い、入院することになった。でもまさか命に別条があるとは思っていない。兄嫁の親戚が院長を務める大病院に入院し、治療体制も万全のはずだった。だが信じられない悲劇が起きた。
あれは、穏やかな日曜の昼下がり。私は母と兄嫁らと団欒の一時を過ごしていた。たまたま遊びに来ていた四兄が奏でるピアノの調べに皆が耳を傾け、つかの間の休日を楽しんでいた。そのとき、病院から緊急連絡が入ったのだ。「容体が急変した。すぐに来てほしい」
ただならぬ気配に兄嫁と四兄は直ちにタクシーで病院へ急行。私と母は三兄の子供達の着替えを手伝ってから後を追った。病院に着くと、長い廊下の先に医師や看護師が力なく立っていた。「最善を尽くしましたが、ご臨終です」。主治医がつぶやく言葉を、私はにわかには信じることができなかった。
輸血した血液が体質的に合わずに急死したという。「大病院で、しかも腸チフスで死ぬなんて」。夢でも見ているんじゃないかと思った。病室からは兄嫁達のすすり泣きが聞こえた。東京駅で出征直前に召集が解除されて命拾いをした強運の持ち主に、こんなあっけない結末が待っているとは。
三兄のことを恨んでいたはずなのに、私は涙が止まらなかった。人生のはかなさを改めて思い知った。「これからはメンツもしがらみも捨て、自由に生きよう。人生は自分の手で切り開こう」。それがなくなった兄が残してくれたメッセージのように思えた。

2009年11月11日星期三

親代わりに兄の"愛のムチ" 「男のくせに」デザイン画燃やす

劣等性
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終戦を迎え、母と私は東京の三兄の家で共同生活を始めた。三兄に世話になるのは金沢以来のことだ。五高から東京帝大医学部を立て、厚生省に入った三兄は将来を嘱望されるエリート。勉強が苦手だった私は「鬼っ子」のような扱いを受けた。
カム カム エブリバディ エブリバディ ハウーアーユー・・・・・・
今でも心に突き刺される悔しい思い出がある。それはラジオから軽快なリズムに乗って、流れてくるNHKの英会話番組のテーマソングだ。童謡「証城寺の狸囃子」の替え歌である。当時、私立の東京中学に通っていた私は毎朝、ラジオに耳を傾けるのが日課だった。
食卓で三兄と向かい合い、朝食をとっていると、どういうわけか、都合の悪いタイミングでラジオの講師が次々と質問を投げ掛けてくる。「今の質問に答えてみろ」。その都度、目の前の三兄に問い詰められた。だが、英語が苦手な私にはどうしても答えが思い浮かばない。じっと黙っているのが常だった。
ある朝、三兄がイライラした様子で声を張り上げた。「おい、いい加減にしろ。どうしてこんな簡単な問題が分からないんだ!」。ついに堪忍袋の緒がきれたらしい。次の瞬間、持っていた箸で私の頬を突いた。もちろん手加減しているので怪我はなかったが、鋭い痛みが顔面を走った。
できの悪い弟がよほど歯がゆかったに違いない。今から思えば、私の将来を心配する兄の"愛のムチ"だったとおもう。幼いころに父をなくした私を「父親代わりに鍛えてやろう」と意気込んでくれたのだろう。だが、この仕打ちは私の胸にこたえた。
自分の部屋に引き返すと、目頭が熱くなり、ポタポタと悔し涙があふれた。
そんな出来事が重なるうちに、私と三兄の関係は徐々に冷え込んでいった。どうしても性が合わないのだ。私が向かいの畳屋に上がって焼き芋をもらったり、お手伝いさんの娘と映画に行ったりすると、そのたびにひどくしかられた。流行歌を口ずさむだけで文句を言われた。
心の慰めは婦人服のデザイン画を描くことだった。かつて長兄の家族がニューヨークから持ち帰った素敵な洋服や雑誌を思い起こしながら、様々なデザインの婦人服を描きまくった。空想の世界に自分を逃避させていたのかも知れない。私は自分の居場所が見つからず、孤独感に打ちひしがれていた。
ある日、大切に描きためていたデザイナ画が三兄に見つかってしまった。「男のくせにこんな女の絵ばかり描きやがって。我が家の恥だ」。激高した彼はデザイン画の束を鷲掴みにし、庭のたき火にくべ始めた。赤い炎の中でデザイン画がメラメラと燃え上がっていく。私はそれを悲しい目で見つめていた。
これも兄の"親心"だったに違いないが、当時の私には分からない。ゆがんだ学歴意識を憎み、ひたすら反発心を燃え上がらせた。「何度だって描きなおしてやるさ。絶対にあきらめないぞ・・・・・・」。煮えたぎるような感情をそっと胸にしまいこみ、私は灰になったデザイン画を黙って掃除した。
木枯らしが吹き付ける寒い冬の日。庭一面に白い粉雪が蝶のように舞っていた。

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単語

愛の鞭 あいのむち 愛するゆえに与える罰。特に、体罰。
嘱望 しょくぼう
証城寺の狸囃子 しょうじょうじのたぬきばやし 
堪忍袋の緒が切れる かんにんぶくろのおがきれる もうこれ以上我慢できなくて怒りが爆発する。◆ 「緒」は、ひものこと。「堪忍袋の尾が切れる」と書くのは誤り。
歯痒かる はがゆかる 思いどおりにならなくて、いらだたしい。もどかしい。
胸に応える むねにこたえる 心に強く感じる。痛切な思いが残る。胸にひびく。
目頭 めがしら
激高 げっこう
鷲掴み わしづかみ
焚き火 たきび
歪む ゆがむ
憎み にくみ
煮え滾る にえたぎる
胸に仕舞い込み むねにしまいこみ
木枯らし こがらし

2009年11月10日星期二

腹に響く原爆の地鳴り すし詰め帰京列車は地獄絵

終戦の混乱
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1945年(昭和20年)。中学生の私はいつも腹をすかせていた。疎開先の山口県田布施で楽しみだったのは通学途中、畑で盗み食いした真っ赤なトマト。熟れた実にかぶりつくと、甘酸っぱい香りが口の中に広がった。「こらぁ、なにしちょるかあ」。怒ったお百姓さんから空気銃で撃たれたこともある。
柿もよく失敬して食べた。その甘かったこと。道草は私にとっての唯一の気晴らしだった。農村地帯の田布施の食糧事情は比較的に、恵まれていた方かもしれない。家では豆や粟、ヒエが混じったおかゆやイモ、野菜などをかき込み、何とか空腹感を満たすことができた。
戦況が悪化するにつれ、学校では勤労奉仕が増えてきた。山に登っては一抱えもある丸太を綱で引っ張り、ふもとまで降ろす。田植えにもよく動員された。ヒザまで泥につかり、ヒルに血を吸われながら汗だくになって苗を植えた。稲刈りにも駆り出された。学校で授業を受けることはめっきり少なくなった。
それまで空襲が少なかった田布施にも、灯火管制が敷かれるようになった。あの恐ろしい日はそんな状況下でやってくる。8月6日、午前8時15分ーー。その瞬間、自宅の庭にいた私はメリメリと腹に響くような地鳴りを感じた。「何が起きたのだろう」。皆目、見当もつかなかった。 だが、とんでもないことが起きたことだけは理解できた。
米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが原子爆弾を広島に投下し、一瞬のうちに無数の人間の命を奪ったと知るのはしばらくたってからのことだ。田布施は広島から60キロほどの距離。その爆音が自宅の庭まで届いたという事実に背筋が凍り付いた。9日後の8月15日正午。ラジオで玉音奉送を聞き、私は日本が戦争に負けたと教えられた。
体から力が抜けて、へたへたと地面に座り込んだ。一体、何のための戦いだったのか。泥も汗も枯れ果てた。「これで戦争による生命の危険は消えた。苦しみから解放される。」それが終戦を迎えた私の偽らざる本音だった。空を見上げると、雲一つなく、澄み渡っていた。
終戦を迎えると、三兄は母と私に上京して自分たちと一緒に住むようにと勧めてくれた。私と母は山口から列車で東京に向かうことにした。そのときの車内の様子はその後、何度も夢に出てくるような地獄絵だった。車両は乗客でギュウギュウ詰め。立すいの余地もなく、トイレに立つことさえできない。車内には悪臭が立ち込めていた。
「おら、どけどけ」。そこに途中から帰還兵が荒々しく乗り込んできた。入り口から入れないと分かると、窓ガラスを次々と叩き割って、無理やり体を滑り込ませてくる。私は母の陰でブルブルと震えていた。列車がトンネルに入ると、割れた窓から機関車が吐く煙が入り込み、息もできない。乗客の顔はすすで汚れて真っ黒になった。
終戦直後、戦争の呪縛から解き放たれた日本は混迷の渦中にあった。皆が今日を行き抜くために必死だった。やっとの思い出上京した母と私は東京・久が原にある三兄の家に身を寄せた。兄嫁と子供はまだ疎開先にいた。母と三兄と私の3人の共同生活が始まった。

2009年11月9日星期一

中学まで8キロ草鞋通学 英語分からず2学年遅れる

山口へ疎開
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悲報が届いたのは1944年(昭和19年)暮れのことだった。自ら望んで出征した長兄が戦死したのだ。38歳だった。フィリピン・レイテ島で戦死すー・・・」こんな紙切れが一枚届いただけ。母はその前日、満開の桜のしたで、長兄が最後の別れを告げにきた夢を見たという。虫の知らせだったのだろうか。
父が病死し、長兄も戦争で失った母はうなだれたまま動かなかった。もう悲しむ気力もうせ、涙尽き果てたという感じだった。当時の日本では珍しくもない出来事だったかもしれない。太平洋戦争は終盤に近付き、日本人全員が巨大な悲劇を背負い込んだような状態だった。
そんなころ、三兄にも召集令状が届いた。「長兄に続いて三兄も命を落とすのか・・・」。こんな不安が頭を掠めた。出征を見送るため、家族で東京駅まで出向くと、駅の構内は重苦しい非状な空気に包まれていた。ホームは召集兵を見送る多数の親族や知人たちで込み合い、肩がぶつかり合うほどだった。
「ばんざーい。お国のために頑張ってくるんだぞ」。勇ましく軍歌を歌うものもいれば、涙ながらに千人針を手渡すものもいる。私や母、兄姉らは沈うつな表情で列車の窓越しに三兄と向かい合った。私は何と声をかけたらよいやら適当な言葉が見つからず、黙ってうつむいていた。そのとき、構内のスピーカーからアナウンスの声が響いた。
「厚生省のアシダさん、アシダさーん、至急、駅長室までおいでください」。三兄は慌てて列車を降り、駅長室に向かった。どんな事情があったかはよく分からない。とにかく召集は解除された。「出征は取りやめになったよ」。三兄は拍子抜けしたようにつぶやいた。母の顔には安堵の色が浮かんだ。私もホッと胸をなでおろした。
太平洋戦争は日増しに敗戦の色を濃くしていた。学校では配属軍人による洗練が続き、竹やり訓練もやらされた。東京上空に敵機が飛来するようになり、灯火管制も厳しくなった。そのころ、長兄の家族と暮らしていた練馬の自宅の庭でも形ばかりの防空壕を掘り始めていた。
「戦況が悪化してきた。東京にいては危険だ」。召集を免れた三兄は、私達に直ちに疎開するように促した。行き先は長姉が嫁いだ山口県田布施の実家。手早く準備を済ませ、長兄の家族と別れて、列車で山口に向かった。車内は地方の身寄りを頼り、疎開する人の波であふれていた。窓から見える景色はすでに灰色一色だった。
疎開先はわらぶきの家屋。風呂はなく、寝床にいればノミに食われっぱなし。自転車の使用は禁じられ、私は自宅から学校まで2里(約8キロ)の道を毎日歩き続けた。革靴も禁止され、ズック、やがて草鞋に履き替えた。慣れぬ鼻緒が足の指の股をこすり、血豆が何度もつぶれた。
独協中学でドイツ語を学んでいた私は柳井中学に編入したが、英語の授業について行けず、さらに進級が1年遅れてしまった。当然、学業には身が入らない。つまらなそうな顔をしていると学校でいじめを受けた。山口の疎開生活には、あまりよい思い出がない。
あれだけ好きだったファッションやデザイン画もいつしか記憶から消えうせていた。

2009年11月6日星期五

間取り図描き自分の城 兄嫁の花嫁道具に心躍らす

金沢に落ち着く
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引き上げ先の金沢では、厚生省から石川県庁に赴任していた三兄が待っていた。新居は切り絵のように美しい紅の格子が映える小粋な日本家屋。父の死で韓国から引き上げた母や兄姉、私の4人が暮らすには十分な広さだった。
この時期、私は結核でなくなった父の影響のせいか、肋膜炎を患い、療養が必要な状態だった。「学校を休んで家で寝ていなさい」。医学の知識がある三兄の判断で、私は半年ほど休学を命じられた。部屋の真ん中でこたつを挟み、病弱の母とのんびり寝て過ごす生活になった。
北陸の小京都、金沢の冬は情緒たっぷり。しんしんと雪が降り積もる中、私は知的で濃厚な時間を送ることができた。母と俳句を詠み合ったり、兄の書棚の文学全集を読みあさったり。大好きな夏目漱石の「坊っちゃん」、志賀直哉の「暗夜行路」に出会ったのもこのころのことだ。
翌春、地元の小学校5年に編入する。病気のために学年は1年遅れてしまった。だがうれしい出来事ともあった。三兄が見合い結婚し、東京から美しい花嫁がやってきたのだ。医者の娘という兄嫁は洗練された都会的なセンスにあふれ、家の中はぱっと明かりがともったように華やいだ。
目を見張ったのは兄嫁が持ち込んだ花嫁道具の数々。ボタンの花が描かれた赤い輪島塗の和箪笥や鏡台、机類・・・・・・。優美な気品をたたえた色彩感覚や造形美に心を打たれた。後にファッションでデザイナーの道に進む地下は、おそらくその辺りの記憶が出発点になっていると思う。
当時、私は風変わりな趣味に没頭していた。画用紙やスケッチブックに空想を膨らませながら、ひたすら家の間取りを描くのだ。見物の外観や設計ではなく、なぜか部屋の間取りに夢中になった。小さな家ではダメ。なるべく大きく豪勢な家が好きだった。すると、なぜだか心が落ち着くのである。
父の急死で、生まれ育った韓国・全州の家を手放し日本に引き揚げた私にとって、家は家族そのものだった。居間、台所、書斎、寝室・・・・・・。家の間取りには、そこで暮らす家族の息遣いや生活のにおいが漂っている。私は五感を研ぎ澄ましながら、来る日も来る日も、家の間取り図を描き続けた。
今考えれば、私は韓国・全州の実家によく似た屋敷の間取りを描いていたように思う。いつも客人であふれ、ワイワイガヤガヤとにぎやかな家が好きなのだ。それは、まだ父が健在で大家族が楽しく暮らしていた時代への郷愁だったのかもしれない。
「自分の城を築き、昔のような楽しい生活を取り戻したい」ーー。これが、その後の人生の大きな目標になった。
やがて太平洋戦争が始まり、ニューヨークに赴任していた長兄が慌ただしく日本に戻ってきた。1942年(昭和17年)のことだ。長兄の家族と同居するため、直ちに私と母と三姉は上京する。「芦田家の家長である長兄と暮らしたい」と母が熱望したからだ。四高に進学した四兄は、そのまま金沢に残った。
親族を転々と渡り歩く居候生活はその後もずっと続いた。母に手を引かれ、自分の居場所を求めるさすらいの日々。私は放浪の旅を繰り返す。「家なき子」だった。

2009年11月5日星期四

病院譲り一家で内地へ 楽しかった生活、音立てて崩壊

父の死
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その日を私は鮮明に覚えている。1941年(昭和16年)7月10日。一家の大黒柱だった父が結核で急逝したのだ。大広間に集まった母や姉、兄らはすっかりやせ細った父の亡骸にすがり付き、オイオイと泣き崩れた。
出棺前に撮影したセピア色の写真が残っている。中央に横たわっているのが父の棺。左手の白装束は母と3人の姉。右手の男性陣は長兄を除く兄弟4人。後列右端が小学5年の私である。改めて見返すと、家族の悲痛な叫び声が聞こえてくるようで、今でも胸が詰まる。
その日を境に、すべてが狂い始めた。父の死により、韓国・全州で一、二を争ってきた病院の経営は困難になった。東京帝大医学部を出て、厚生省に勤務していた三兄には病院を継ぐ意思がなかった。九州帝大を出て、東京府庁の役人になっていた長兄はニューヨークの日本文化会館に赴任しており、すぐには帰国できなかった。
母はやむを得ず、父がゼロから築き上げた病院や屋敷の一切を手放し、日本に引き揚げることを決めた。あんなに楽しかった生活や家が音を立てて崩れてゆく。「この先、どうしたらよいものか」。運命の荒波に翻弄された母はみるみるやつれ、床に伏せりがちになった。
ようやく秋になり、引き揚げの準備が整った。すでに独立している兄や姉を除いた母、三姉、四兄、私の計4人が日本へ旅たつことになった。この年の暮れ、日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が勃発する。戦渦に巻き込まれずに家財をすべて日本に運び込み、家族も無事に引き揚げることができたのだから、その意味では幸運だったといえるのかもしれない。
出発の朝。全州の駅のホームは釜山に向かう列車の見送り人で込み合っていた。野球や戦争ごっこで遊んだ級友の懐かしい顔も見える。哀愁を帯びた汽笛が鳴り響き、列車がゆっくりとホームから離れ始めた。私は車窓を開き放って、友人たちに思いっ切り手を振った。
「さよなら。お達者で」
「うん、向こうについたら必ず手紙を書くからな」
胸の奥から悲しさがこみ上げてきて、目の前が涙でかすんだ。私はとっさにかぶっていた学帽を友人に投げた。「僕のことを忘れないでくれよお」。学帽が小さな放物線を描きながら後景に吸い込まれていく。見送り人の姿がゴマ粒のようになるまで、私は手を振り続けた。
行き先は厚生省から石川県庁に派遣されていた三兄が住む金沢だった。4人を迎えるために一軒家を借り上げてくれたという。我々は列車で釜山に向かい、それから下関行きの連絡船に乗り換えた。途中、初めて目にした日本の美しさに私は息をのんだ。荒々しい玄界灘の波間に、薄緑の海岸線がきらめいている。
「いよいよ到着よ。ほら、あそこに見えるのが本州」。母が耳元でささやくと、私は甲板から身を乗り出して、じっと目を凝らした。「ああ神様。これからどんな運命がこようと、どうか私たちをお守りください」。舳先のむこうにくっきりと浮かぶ下関港を眺めながら、私は心の中で静かに祈りをささげた。
41年秋。早くも冬の訪れを告げる潮風が、青黒い海面を這うように吹き付けていた。

2009年11月4日星期三

芦田淳 末っ子 父の愛情一身に 家風にいびつな"学歴意識"も

生家は韓国
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私の生まれ故郷は韓国南西部にある全羅北道の古都、全州である。若き外科医だった父、定男は長男にもかかわらず、京都・丹後地方の実家を離れて、日本統治下の朝鮮半島に渡った。京都の実家は11代、300年以上も続いた旧家だから、かなり思い切った決断だったに違いない。
おそらく古くさい因習や風土を嫌って、「新天地で一旗揚げよう」という野心にかき立てられたのだろう。そんな進取の気風にあふれる父は全州で一、二を争う病院の経営者となる。私が生まれた1930年(昭和5年)ころは生活も安定し、羽振りもかなり良かったようだ。
洋館を併設した自宅の敷地は300坪(約1千平方)もあり、いつも大勢の客が出入りしていた。祝い事があると芸者衆を呼んでは大広間でどんちゃん騒ぎ。行楽シーズンには全州八景に数えられる徳津湖畔に屋形船をこぎだし、湖面を埋め尽くすハスの花がポンッと音を鳴らして咲く様子をよく見物したという。
私には兄が4人、姉が3人いた。8人兄弟の末っ子である。父は56歳で授かった孫のような私を、たいそうかわいがった。宴会でお菓子をもらって帰れば、真夜中でも起こされ、食べさせられた。私が「絵を描きたい」とダダをこねれば、すぐに文具屋から大量の画用紙が届けられた。まるで「砂糖菓子」のように、私は甘やかされて育った。
とはいえ学校では勉強も運動もよくできる優等生だった。成績はトップ。足も速く、運動会ではいつもリレーの選手。いわばクラスのリーダー格で、大勢の友達を引き連れては、日が暮れるまで自宅や近所の空き地で野球やドッジボール、テニス、戦争ごっこに興じていたものだ。
一見、平穏そうな芦田家には、実はいびつな"学歴意識"があった。父は「帝大以外は大学ではない」が持論で、息子達を帝大に送り出し、学問をさせることが夢だった。その期待に応えるように、24歳上の長兄は六高から九州帝大に、19歳上の三兄は五高から東京帝大に進学。2歳上の四兄も後に四高から東大へ進み、絵に描いたようなエリートコースをたどる。
だが帝大受験に失敗し早稲田大学に進学した次兄だけは露骨に冷遇されていた。夏休みに日本から船で帰省するのに、長兄や三兄は一等船室だったが、次兄には三等船室があてがわれた。次兄はその後、養子に出てしまう。そんな厳しい家風に逆って、やがて私は、大学も出ずにファッションデザイナーという異端の道を歩き始める。
それがどれほどの波風を立て、私の心を苦しめることになるのかーー。当時の私にはまだ知るよしもない。
忘れられない光景がある。あれは、たしか5歳か6歳のころ。自宅の風呂場で私は父と母に体を洗ってもらっていた。すると、ふと父がこんな言葉をつぶやいた。「母さん。この子が大きくなるのを、わしらはいつまで見てやることができるのだろうか・・・・・・」 。年を取ってから生まれた末っ子の将来を案じたのだろう。
薄暗い天井を見上げながら、私は子供心にも「こんな楽しい生活は長くは続かないだろう」とぼんやり考えていた。予感は見事に的中する。思い起こせば、あのころが芦田家の絶頂期だった。一家をどん底に突き落とす悲劇は意外なほど速足でやって来る。

加山雄三 永遠の若大将 歌と共に おやじバンド結成、毎月演奏

いのち果てるまで
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「次の曲は『旅人よ』。ご存じの方は、どうぞ一緒に歌ってください。僕を初めて見る外国の方にも、日本では有名な歌手なのだなと思ってもらえるでしょうからね」
2005年10月、米ニューヨークのカーネギーホール大ホールでデビュー45周年コンサートを開いた。客席には日本人の姿も多い。歌の合間は英語で話していたが、ここだけは日本語で。演出の石田弘さんのアイデアだった。
「草は枯れても いのち果てるまで 君よ 夢をこころに 若き旅人よ」。期待以上のものすごい大合唱が巻き起こり、会場にいたみんなの心を揺さぶった。石田さんは涙でぐちゃぐちゃになっている。僕らに対して横柄で冷たかったホールの職員たちまで涙、涙・・・・・・。僕には歌がある。歌い続けてきてよかった。
「加山さん、エレキ引いてくださいよ」。ザ・ワイルドワンズの島英二君にそう言われたのが1994年のこと。あれほど好きだったエレキギターなのに、僕は70年の倒産騒ぎのころに放り出して、ずっと倉庫に捨て置いていた。
ワイルドワンズは後輩の加瀬邦彦君が60年代に結成した僕の弟分で、「思い出の渚」が有名だ。バンド名は僕がつけた。「どんな意味です?」「自然児だよ」 「修善寺ですか」。そんな連中である。
「こんなに錆びちゃって、ひどいや」。島君は僕のギターに新しい弦を張り、アンプにつないだ。ああ、懐かしい音がする。「エレキの若大将」の日々がよみがえった。
「よし、メンバーを集めよう」。僕や島君を含めて7人編成のおやじバンド、ハイパーランチャーズを結成。加瀬君の経営するライブハウス「ケネディハウス銀座」で毎月演奏するようになった。おかげで錆びついていたギターの腕もずいぶん回復した。
06年3月には東京文化会館大ホールで公演した。ポップス系の音楽家がこのステージに立つのは僕が初めてだそうだ。大本直人さん指揮、千住明さん編曲という恵まれた環境で歌った。長女が生まれた時に作った弦楽合奏のためのロンド「真悠子」では指揮棒も振った。あれは緊張した。
連載の前半に「音楽は趣味」と書いた。仕事と考えると楽しみが失われるから、あえて「趣味」と言わせてもらっている。思えば、僕は多趣味な人間だ。船やスキーだけでなく、近年は油彩や水彩画、陶芸にも熱中している。59歳で初めて開いた個展は13回を数え、西伊豆に自分の釜も開いた。鉄道模型やテレビゲームもかなりのマニアだ。
72歳になっても、「永遠の若大将」のイメージが強すぎて、俳優としてはマイナスになった面もあるだろうが、音楽家としてはまったく逆である。多くの人々と共有した夢の世界が「若大将」で、僕の音楽はそこに誘う呪文のようなものかもしれない。
今は「湘南 海 物語 オヤジ達の伝説」と題して、ワイルドワンズと一緒に各地でコンサートを開いている。「夜空の星」や「君と何時までも」を歌えば、お客さんも僕自身も「若大将」の時代にひとっ飛び。心から「幸せだなあ」といえる瞬間だ。
来年はデビュー50周年を迎える。生涯現役でやっていくため、酒もたばこもやめた。僕は歌いたい。夢をこころに、いつまでも。