2009年11月27日星期五

2009年11月25日星期三

「パリで働いてみないか」 語学研修条件、仏百貨店が誘い

欧州視察
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飛行機の窓から外をのぞくと、見慣れた東京の街がゆっくりと雲間に消えていった。胸がドキドキと高鳴り、気分が高揚してくる。「これから何でも見聞きし、貪欲に吸収してやるぞ」。羽田空港から飛び立った私は心の中でつぶやいた。
1963年(昭和38年)1月の肌寒い日。私は旅行社が募ったファッション視察団に参加し、あこがれの欧州に初めて向かった。すでに高島屋のデザイナーとして実績は残していたが、自分の力が本場でも通用するのかをこの目で確かめたくなったのだ。
2ヶ月、仕事を休んだ。高島屋はその間の費用も給料も出してくれた。渡航先はオランダ、英国、フランス、スペイン、イタリアなど。でも最も印象深いのはパリだった。まず町並みの美しさに心を奪われた。高さや色が見事に統一され、広場は噴水や花壇で華麗に飾られている。
威風堂々としたシャンゼリゼ通りにも圧倒された。一流ブティックが集まるフォープル・サントノーレ通りのそぞろ歩きには心が浮き立った。待ちにはシックに着飾ったマダムが行き交い、洗練された様々な洋服が店先を鮮やかに彩っていた。パリの街全体がショーウインドーだった。
「娘に着せたいなあ」。店先を覗くたびに気になったのが子供服だ。イカリのマークが入った赤と白の水兵服、真っ白ななめし革のスカート・・・・・・。日本に残してきた2歳の娘のために私はせっせと買い漁った。2ヶ月間でダンボールに3箱もたまり、持ち帰るのに苦労したほどだ。
さて、私はころあいを見計らい、オペラ座近くにある老舗百貨店プランタンを訪ねてみた。日本から用意してきたデザイン画を見てもらうためだ。デザイン室で面談した担当者は作品に丹念に目を通すと、私に笑顔を向けた。「素晴らしい出来栄えだ。これならパリでも十分通用するよ。今すぐにここで働かないか」
驚いたのは私のほうだった。具体的な給与額までその場で提示されたのだ。思わぬ急展開に私は当惑した。
「ただし」と相手は続けた。「問題はあなたの語学力。職場では議論が中心だから、言葉がわからないと仕事にならない。語学学校でフランス語をみっちりと鍛えること。これが入社の条件です」。私は回答を保留し、渋滞先のホテルに引き返した。
「へえ、そんなに給料をもらえるの?すごいじゃない。パリに出てこいよ」。以前からの友人でパリの有名工房で就業していた防止デザイナー、平田暁夫さんに話すと、自分のことのように喜んでくれた。私の心は激しく揺れた。とにかく帰国し、よく考えてから答えを出すことにした。
ところで海外暮らしが長くなると、どうしても恋しくなるのが和食である。パリ滞在中、いつもお世話になったのがモンパルナスにあった平田さんの自宅だった。焼き魚にみそ汁、ご飯など奥さんの手料理に舌鼓を打った。こうして2ヶ月はあっという間に過ぎた。実り多き旅は終わり、私は帰国の途についた。
羽田空港に着くと妻と娘が出迎えに来ていた。久々の家族の対面である。「おーい、今帰ったよ」と娘に手を振ると、「え?どこのオジチャマ」と首を傾げている。絶句した。2ヶ月間、会わないうちに娘は私のことをすっかり忘れてしまっていた。


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単語

雲間 くもま
見聞きす みききす
貪欲 どんよく
渡航先 とこうさき
噴水 ふんすい
花壇 かだん
威風堂々 いふうどうどう
漫ろ歩く そぞろあるく
行き交う いきかう
せっせと
見計らう みはからう
丹念 たんねん
出来栄え できばえ
当惑 とうわく
平田暁夫 ひらたあきお
舌鼓 したつづみ
傾げる かしげる
絶句 ぜっく

2009年11月24日星期二

高級既製服を世に問う 数十億円の仕事、分刻みで働く

高島屋
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1960年(昭和35年)日米安保条約の改定で世の中は騒然とし、池田勇人内閣が「所得倍増計画」を声高に叫んでいた。「もはや戦後ではない」と経済白書がうたったのが4年前のことだ。高度成長、大量消費時代を迎え、日本のファッション界にも改革の風が吹き込んでいた。この年、私の人生で重要な出来ことが2つ重なった。1つは後輩デザイナーだった富田友子との結婚。もう1つは、高島屋とデザイナー契約を結んだことだ。そのころの百貨店は、一般にはまだ耳慣れない「プレタポルテ(高級既製服)」の分野を強化しようとしている時期だった。
それまで、洋服は布地を買って自分で作るか、洋装店で仕立てるかしかなかった。デザイナーと言えば、流行服の写真が載ったスタイルブックをパラパラとめくりながら、「袖はこのディオール風で、襟はこのサンローラン風で仕上げましょうか」などと欧米デザイナーの作品をコピーするのが関の山だった。
「だが、これからはデザイナーの時代になる。百貨店のオリジナルを作れる人材を探せ」。こんな方針を打ち出した高島屋が目をつけたのが私だった。ジョンストン自体に高島屋にはすでに私のコーナーがあり、商品がよく売れていたからだろう。私を引き立ててくれたのは東京店の営業部長で、後に高島屋専務になる仲原利男さんだった。
勤務は1日おきの週3日制。残りは自分が抱える顧客をこなすという「二足の草鞋」状態だった。だが15年続いたこの高島時代に、今のファッションデザイナー、芦田淳が作られたといってもよい。デザインや色、生地、売り場の展示法まで一切を任され、ビジネスの基本をみっちりと叩き込まれた。
たとえば次のテーマは「ジュネス(仏語で青春)」で行こうと社内で決まる。すると私が色や素材を選び、服をデザインし、高島屋の全店で販売するのだ。数十億円規模のビジネスである。責任は重大だ。だが自分のアイデアを世に問い、その結果を肌で確認できるやりがいがあった。
出勤日は朝から深夜まで分刻みの忙しさだった。
「来シーズンはこんな商品を企画してほしい」
「どんな色をいくつ仕入れたらいいか相談したい」
婦人服、紳士服、運動着、子供服、下着、ネクタイ・・・・・・。各部門の責任者や担当者との打ち合わせが、切れ目なく入る。その間に各階の売り場を巡回し、客の反応や売れ行きにも細かく目を配った。
すっかり疲れ果てて深夜中に帰宅すると、翌日昼まで泥のように眠った。でも「オレが店を支えているんだ。陰の社長なんだ」くらいの自負心があった。合言葉は「伊勢丹や西武百貨店に負けるな」。社員が一丸となり、全社挙げて戦闘体制に入っていた。
有志による勉強会にも参加した。売り場の課長レベルと週1回、仕事が終わった後に議論する。「ファッションの未来とは」「百貨店が向かうべき方向とは」。夜遅くまで意見を激しくぶつけ合った。仲原さんはそんな様子に目を細めながら、全面的に支援してくれた。
ファッション界には新たなビジネスの地平を切り開こうという活気があふれていた。こうした渦の中から多くの男性デザイナーが生まれたのだ。私もその一人だった。


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単語

池田勇人 いけだはやと
声高 こわだか
布地 ぬのじ
捲る めくる
袖 そで
襟 えり
仲原利男 なかはらとしお
二足の草鞋 にそくのわらじ
仏語 ぶつご
分刻み ふんきざみ
売れ行き うれいき
伊勢丹 いせたん
渦 うず

2009年11月21日星期六

「その婚約、破棄してくれ」 貯金なく、指輪はトルコ石

略奪愛
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独り身で外食に飽きていた私は、3歳下の後輩デザイナー、富田知子の家に呼ばれて、頻繁に食事を共にするようになっていた。とは言っても兄と妹とのような関係で、まだはっきりした恋愛感情のようなものはない。
日本橋で有名な紳士服店を営んでいたこともある資産家だった。父は2枚目の歌舞伎役者のような優男。 母は気風の良い姉御肌。ともに大変な食道楽で、「いつもごちそうになります」と私が顔を見せると、目を細めながら、四節折々の旬の食材を使ったおいしい料理を出してくれた。
後で聞いた話だが、物怖じせずに他人の家に上がりこみ、ズケズケといいたいことを言う私のことを、義父は「決して二枚目ではないが、ああいう男は出世するぞ」と褒めてくれていたらしい。義父とは対照的な無粋なところが見込まれたのかもしれない。
ジョンストンは社員30人くらいの会社でデザイナーは友子も含めて7人ほど。会社では上司と部下だが、年は3つしか離れていないから友人のようなものだ。一緒に食事したり、飲みに行ったり、仕事や見合いの相談に乗ったりという状態が続いていた。
そんなある日、友子が改まった表情で「話があるの」と声をかけてきた。聞いてみると「ある男性と婚約を交わし、挙式する準備を進めている。だからウエディングトレスをあなたにデザインしてほしい」という。すでに日取りも決まっていた。私は、いきなり横っ面をぶん殴られたような衝撃を覚えた。
「落ち着け。落ち着け」。自らに言い聞かせた。妹のように思っていたあの友子が他人のものになってしまう。それは寂しいことではないか。いや、いや、寂しいどころではない。これは絶対に受け入れてはいけない事態だぞ!その瞬間、私は友子への熱い感情に初めて気付いた。そして、土壇場に追い込まれた自分の窮状も悟った。
しばらく黙考した後、意を決して友子に言った。「その婚約、破棄してくれないか。君と結婚したいんだ!」。私の唐突の申し出に友子は驚き、首を振った。「ダメよ。もう式場も予約し、招待状も印刷しているんだから」。「分かった。とにかくご両親に相談しよう」。私は居ても立っても居られず、友子の実家に向かった。
両親は私の言葉にじっと耳を傾けていた。やがて義母が居住まいをただしながら口を開いた。「事情は良く分かりました。招待状はすでに印刷していますが、こちらで何とかとめさせましょう。2人とも決心はいいですね。実は私たちも、かねがね2人が一緒になるのがいいと思っていたのですよ」。凛とした口調が広間に響き渡った。
私は胸をなでおろした。だが、いざ結婚が決まってみてハタと困った。浪費続きで婚約指輪を買う金がなかったのだ。「申し訳ありません、実は私には貯金がないのです。今買えるのはせいぜいトルコ石くらいです」。正直に打ち明けると、義母は笑いながら「お金なんて問題ではありませんよ。これから立派になって、おおきなダイヤでも買ってやってくださいな」とからりといってのけた。
1960年(昭和35年)3月15日。私と友子ははれて結婚した。この結婚を機に、私の人生の運気は一気に上昇する。


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単語

略奪 りゃくだつ
営む いとなむ
優男 やさおとこ
気風 きっぷ
姉御肌 あねごはだ
食道楽 くいどうらく
四節折々 しせつおりおり
物怖じせず ものおじせず
義父 ぎふ
義母 ぎぼ
無粋 ぶすい
日取り ひどり
横っ面 よこっつら
打ん殴らせた ぶんなぐられた
土壇場 どたんば
窮状 きゅうじょう
悟る さとる
黙考 もっこう
居住まい いずまい
正す ただす
かねがね ー 以前からずっと
胸を撫で下ろす むねをなでおろす
ハタと困る ー 突然 困る
晴れて ー 世間に正式に認められて、もうだれにも遠慮する必要のないさま。公然と。

2009年11月19日星期四

宵越しのカネは持たず 母の急死後、表参道に引っ越し

気ままな独身
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私は東京・人形町にあるアパレルメーカー「ジョンストン」に移った。紳士服メーカーだったが、「婦人服を本格的に手がけたい」 というオーナーの意向で私に白羽の矢が立ったのだ。
入社するとすぐ高島屋の店舗に「キュート・コーナー」という私の売り場ができた。ジョンストンの看板デザイナーとして、私は驚くほどの高給をもらった。ほかにファッション雑誌への掲載料など副収入もあったから、独り身には十分すぎるほどの額だった。
そこで東京・下落合に念願の一軒家を借り上げ、母や戦争未亡人になっていた長姉、その息子たちを呼び寄せて一緒に暮らすことにした。病弱な母のために風呂も増築しった。こうして曲がりなりにも、「自分の城」を手に入れたのだ。家は急ににぎやかになり、私は一家の生活を支える大黒柱になった。
だが、その状態も、つかの間で終止符を打つ。1957年(昭和32年)に母が69歳で急死したからだ。その前夜、不思議な予兆があった。襖一枚隔てた隣から「ヒトシー」という叫び声が聞こえたのだ。急いで様子を見に行くと母の寝言だった。当時、離れて暮らしていた四兄、等の夢を見たという。
そして翌朝、姉が食事を運ぼうとして母の部屋に入ると、母は既に息を引き取っていた。心臓疾患による病死だった。抱きしめると、まだぬくもりがあった。父の病死後、兄弟姉妹の元を転々としながら女手一つで私を育ててくれた母。死に顔が安らかだったのが心の救いだった。私は心づくしの葬式を挙げ、母を天国に送り出した。
母の死後、私は長姉の家族と別れ、一人暮らしを始めた。「今度はデザイナーらしいオシャレな暮らしがしたいな」と思って、表参道にある外国人向けの平屋住宅に引っ越した。2LDKで、寝室や浴室がやけに広いホテルのような家だった。そんな生活感のない部屋で、私の気ままな独身生活が始まった。
朝は渋谷の小粋なレストランでトーストとコーヒーの朝食。夜は繁華街のディスコやナイトクラブを遊び歩く。赤坂のナイトクラブ「コパカバーナ」や新橋のダンスホール「フロリダ」には良く通った。
そして最後には六本木の中華レストラン「皇妃園」でお開き。こんな毎日が続いた。「宵越しのカネは持たない」という矜持だった。
だが外食ばかりが続くとどうしても飽きてくる。「たまには焼き魚をたべたいなぁ」と思って、魚屋でサバを丸ごと1匹買ったが、裁き方がさっぱり分からない。仕方がないから冷蔵庫に入れて放っておいたら、後で水分が抜けてすっかり干かびたら”サバのミイラ”をみつけて、肝をつぶしたこともある。
そんなころ、ジョンストンに運命の女性が颯爽と現れた。新入りデザイナーとして採用された富田友子。今の伴侶である。当時、私は雑誌にも取り上げられる有名人だったから、友子の方は「芦田淳ってどんな人かしら」 と興味津々だったようだ。
だが私の方は「鼻持ちならないお嬢様が入ってきたな」くらいにしか思っていない。ところが、ある劇的な”告白”をきっかけに私の気持ちは急速に友子に傾いていく。

2009年11月18日星期三

ヒット連発、銀座で評判 雑誌掲載、社内でやっかみも

人気デザイナー
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1953年(昭和28年)、初めて就職した「ミクラ」は、後にパリで活躍する高田賢三さんも在籍する既製服メーカーである。ただ当時はデザイナーが7,8人程度で、畳の上で仕事をするような小さな会社だった。
「よし、これなら売れるぞ。すぐに量産にかかれ!」
「あ、これはダメだな。残念ながらボツ!」
毎朝、会議室ではこんな言葉が威勢良く飛び交っていた。ミクラでは、まずデザイナーが見本をつくって会議室で発表し、営業マンが皆の前で本格生産に入るかどうかを判断するやり方だった。デザイナーの実力がそのまま問われる弱肉強食の世界である。
だが、私の服は良く売れた。最初から圧倒的な人気を博したのだ。新人にもかかわらず、あれよあれよという間にデザイナ部長に昇格した。幼いころから兄嫁たちの舶来の洋服やファッション雑誌をみて育ったことや、中原淳一先生に直接鍛えられてきたことのおかげだろう。
私の作品はすぐに評判を呼び、女性誌「婦人画報」などのメディアに大きく取り上げられるようになった。自分の作品が、有名デザイナーの田中千代さんと並んで掲載された時には、飛び上がらんばかりに喜んだ。若い私は次第に有頂天になっていた。
すると、社内から私を糾弾する声が上がり始めた。「会社の生地で服を作り、雑誌を通じて売名行為をしている」というのだ。まったくの濡れ衣だった。おそらく、私へのやっかみもあったのだろう。そんな時、「ひつじや」という別の会社のオーナーが私をスカウトしてくれた。
銀座の生地専門店で、8丁目の大きなウインドーに斬新な服を並べることで知られていた。「よし、やってやるぞ」。私は奮い立った。ここでも私の服は飛ぶように売れた。つくればつくっただけ売れるような状態だった。
当時、街角には高峰秀子さんや笠置シヅ子さんらの弾むような歌声が響いていた。
あの娘可愛いや カンカン娘 赤いブラウス サンダルはいて 誰を持つやら 銀座の街角 時計ながめて そわそわにやにや これが銀座の カンカン娘 ・・・・・・
銀座は流行の発信地だった。夕方になると、着飾った紳士淑女が派手なオープンカーで乗り付け、最先端のおしゃれを競い合う。リボンの付いた水玉模様のワンピース、パラシュートのようなサテン地のスカート、チェック柄のツイードのジャケット・・・・・・。人々は明るくモダンな洋服に夢中になっていた。
そんな銀座で私は評判の若手デザイナーになった。そうなると自然に金遣いも荒くなる。札束をポケットに突っ込んでは、友人を引き連れ、繁華街を練り歩くような日々が続いた。
ただ、どんなに給料が増えても、出るほうもドンドン増えるからカネは全くたまらない。楽天的な性格はこのころから変わらないようだ。
世の中にはまだ戦争の傷跡も残っていたが、人々は廃墟の中から逞しく立ち上がり、新たな価値観やライフスタイルを見つけ出そうと躍起になっていた。そんな人々の心の渇きを癒すのがファッションや娯楽だった。私はそんな心意気に燃えていた。


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単語

飛び交う とびかう
ボツ
博す はくす
舶来 はくらい
濡れ衣 ぬれぎぬ
奮い立つ ふるいたつ
飛び上がらんばかりに喜んだ
有頂天 うちょうてん
糾弾 きゅうだん
高峰秀子 たかみねひでこ
笠置シヅ子 たさぎしづこ
着飾る きかざる
紳士淑女 しんししゅくじょ
競い合う きそいあう
廃墟 はいきょ
逞しい たくましい
躍起 やっき

2009年11月17日星期二

ubuntuでRails環境を設定

sudo apt-get udpate
sudo gem update --system
sudo gem update --no-ri --no-rdoc
sudo gem install rails haml --no-ri --no-rdoc


vim-rails設定

sudo apt-get install vim-rails
vim-rails-setup