幼少期
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by 槇原稔
ロンドンで生まれた私は家族の愛情に包まれ、穏やかな幼少期を送った。クリスマスや誕生日には友達を家に招き、パーティーを開いてもらった。夏休みは一家で田舎で過ごす習慣だった。雑木林にジュシマツの巣があり、卵を見つけたときは、大興奮して父母に報告した。
ロンドンで忘れられないのは、私の面倒を見てくれたスコットランド出身のミス・グラントという住み込みのナニー(養育係り)だ。後に青年時代に米国に留学したとき、周囲のアメリカ人から「イギリス風の英国だね」とよく言われた。「小さいころ、ミス・グラントと喋っていたおかげだろう」と思い込んでいたのだが、これが全くの間違いと判明する。
成人した後にエジンバラに住んでいた彼女を訪ねると、スコットランドなまりが強く、聞き取るのに苦労した。英国風のアクセントがどこで身についたのか、自分でもいまだに謎のままだ。
家には三菱商事のロンドン支店に勤めていた父の仕事関係の来客が多く、母はそちらに忙殺された。が、私の教育には熱心で、日本語の先生は母だった。
小学校に入学する直前には「水泳だけはできたほうがいい」ということになって、腹の下に紐をかけて、プールの中をぐいぐい引っ張られた記憶がある。今から思うと珍妙な訓練だったが、おかげで泳ぎを覚えた。ちなみに母はそれまでかなづちだったが、私に教えるために自分でまず水泳をマスターしたそうだ。
日本に帰国したのは1937年、7歳のときだ。米大陸経由で横浜に着いた、船員たちに良く遊んでもらったこと、ニューヨークで同地の三菱商事の支店長の歓迎を受けたことなどが思い出される。
思えば7歳までロンドンにいたのは僥倖だった。5歳までに帰国した人には、まるっきり英国を忘れてしまった人が多いが、私はそうはならなかった。英語という言葉が、人生の大きな導き手になったのは往々詳述したい。
父はその後すぐにロンドン支店長として単身で再赴任し、私は母と二人で東京に残った。当時父から来た手紙が幾つか残っている。40年7月の手紙にはこうある。
「稔はだんだん字が上手になるし、間違いがなくなってきた。ミス・グラントにみせたら日本時でも稔の成長が分かるといっていた。Daddy(お父さん)も鼻高々さ」。そう書いた手紙の片隅には鼻のイラストがついていた。
冗談だが父の手紙をみると達筆に驚かされる。母文字は下手ではない。ところが、私は若いころから悪筆で、この履歴書の題字を書くにも苦労した。なぜ両親の達筆を受け継がなかったのか、いまでも悔まれる。
それはともかく、私も頻繁に手紙を書いた。シベリア鉄道経由で送ると船便より早くつくので、いつもシベリア経由で投函した。
帰国後入学したのは三菱グループとゆかりの深い東京・吉祥寺の成蹊学園。当時の成蹊に今までいう海外帰国子女をあつめた操洋学級というクラスがあった。すぐに日本の生活になじめ、友達もたくさんできた。幼かった私は、愉快で満ち足りた日々がいつまでも続くものと信じていた。
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単語
雑木林 ぞうきばやし
じゅうしまつ a chinese hawk-cuckoo
スコットランド scottland 英国、大ブリテン島北部
金槌 かなづち
珍妙 ちんみょう
僥倖 ぎょうこう
追々 おいおい
詳述 しょうじゅつ
鼻高々 はなたかだか
達筆 たっぴつ
悪筆 あくひつ
満ち足りる みちたりる
2009年12月20日星期日
秀才の父 苦学し大学へ 文学好き母は芥川と面識
両親
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by 槇原 稔
私の父、槇原覚は1894年に鳥取との県境に近い岡山の神代村という農村に生まれた。家は小作農で、経済的には貧しかったが、勉強は抜群できたらしい。こんな逸話がある。小学校の先生が教室で質問すると、窓の外から答えが返ってきた。驚いて外を見ると、学校に上がる前に小さな子ともがいて、それが父であった。校庭で遊ぶついでに先生の話を聞いて、すらすら内容を理解したという。
そんな父が親戚を頼って上京したのは14歳のときだった。最初は使い走りや子守を経て、一橋大学に進んだ。貧しい出身の父がこの時代に最高学府まで進学できたのは、一つの縁に恵まれたからだ。
三菱の創業者として有名な岩崎弥太郎には久弥という長男がおり、久弥には3人の息子がいた。久弥はこの3人を手元におかず、本郷龍岡町に寮を作り、教育者を迎えて、同年代の青年達を学友として同居させた。
これは息子達の教育のためであったが、同時に将来の三菱の幹部の養成を考えていたのかもしれない。様々な大学から学生が集まった。父もその一人に選ばれ、援助を受けることになったのだ。父と岩崎家にどんな接点があったのか今では知る由もないが、地方出身の苦学生にとって、これはたいへん幸運なことだった。
お金の苦労から解放された父はテニスに熱中し、いつも浅黒く日焼けしていたという。学業でも優秀な成績を収めた。卒業式で送られたという金時計は、残念ながらもう残っていないが・・・・・・。
卒業後は当然のように三菱商事の門をたたき、1921年に母の治子(旧姓・秦)と結婚した。父28歳、母21歳。この2人の仲を取り持ったのが、母の兄で、三菱商事の社員だった秦豊吉である。
小作農の出身である父とは対照的に、母の実家の秦家は東京で薬商を営み、裕福な暮らしぶりだったようだ。親戚には歌舞伎役者もおり、さらに豊吉は商社務めの傍ら文化的な方面でも活躍した。
戦前にはレマルクの「西部戦線異状なし」やゲーテの「ファウスト」を翻訳し、文名を上げた。「ファウスト」についてはすでに森鴎外の訳があった。「なぜ改めて君が訳すのか」と聞かれた豊吉は、「鴎外はファウスト博士と悪魔のメフィストフェレスの関係を誤解している。その誤りを正したい」と答えだそうだ。後に当方に移籍し、日劇ダンシングチームを育てるなど演出家としての才能も発揮した。
牛込余丁町の秦家の屋敷には、豊吉の友人の芥川龍之介もときどき遊びに来た。龍之介には絵心があって、ちゃぶ台で幼い母の似顔絵を描いてくれたという。そんな影響もあってか、母は若いころは文学志望だったようだ。「水島京子」の筆名で懸賞小説に応募し、自作の小説が雑誌に載ったことも何度かあった。
私が生まれたのは、結婚から9年がたち、父母がロンドンに駐在していた1930年のことだ。母は一度流産しており、両親とも子供は諦めていたそうだ。妊娠がわかって、父は大量のミネラルウオーターを取り寄せた。生まれてくる子供を大事に育てるために万全を期したのだ。
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単語
秀才 しゅうさい
槇原覚 まきはらさとる
神代 かみよ
逸話 いつわ
使い走り
子守 こもり
一橋大学 ひとつばしだいがく
岩崎弥太郎 いわさきやたろう
岩崎久弥 いわさきひさや
本郷龍岡町 ほんごうりゅうおかまち
浅黒い あさぐろい
金時計 きんどけい
秦豊吉 はたとよきち
傍ら かたわら
森鴎外 もりおうがい
日劇 にちげき
牛込余丁町 うしごめよちょうまち
芥川龍之介 あくたがわりゅうのすけ
絵心 えごころ
ちゃぶ台 ちゃぶだい
筆名 ひつめい
流産 りゅうざん
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by 槇原 稔
私の父、槇原覚は1894年に鳥取との県境に近い岡山の神代村という農村に生まれた。家は小作農で、経済的には貧しかったが、勉強は抜群できたらしい。こんな逸話がある。小学校の先生が教室で質問すると、窓の外から答えが返ってきた。驚いて外を見ると、学校に上がる前に小さな子ともがいて、それが父であった。校庭で遊ぶついでに先生の話を聞いて、すらすら内容を理解したという。
そんな父が親戚を頼って上京したのは14歳のときだった。最初は使い走りや子守を経て、一橋大学に進んだ。貧しい出身の父がこの時代に最高学府まで進学できたのは、一つの縁に恵まれたからだ。
三菱の創業者として有名な岩崎弥太郎には久弥という長男がおり、久弥には3人の息子がいた。久弥はこの3人を手元におかず、本郷龍岡町に寮を作り、教育者を迎えて、同年代の青年達を学友として同居させた。
これは息子達の教育のためであったが、同時に将来の三菱の幹部の養成を考えていたのかもしれない。様々な大学から学生が集まった。父もその一人に選ばれ、援助を受けることになったのだ。父と岩崎家にどんな接点があったのか今では知る由もないが、地方出身の苦学生にとって、これはたいへん幸運なことだった。
お金の苦労から解放された父はテニスに熱中し、いつも浅黒く日焼けしていたという。学業でも優秀な成績を収めた。卒業式で送られたという金時計は、残念ながらもう残っていないが・・・・・・。
卒業後は当然のように三菱商事の門をたたき、1921年に母の治子(旧姓・秦)と結婚した。父28歳、母21歳。この2人の仲を取り持ったのが、母の兄で、三菱商事の社員だった秦豊吉である。
小作農の出身である父とは対照的に、母の実家の秦家は東京で薬商を営み、裕福な暮らしぶりだったようだ。親戚には歌舞伎役者もおり、さらに豊吉は商社務めの傍ら文化的な方面でも活躍した。
戦前にはレマルクの「西部戦線異状なし」やゲーテの「ファウスト」を翻訳し、文名を上げた。「ファウスト」についてはすでに森鴎外の訳があった。「なぜ改めて君が訳すのか」と聞かれた豊吉は、「鴎外はファウスト博士と悪魔のメフィストフェレスの関係を誤解している。その誤りを正したい」と答えだそうだ。後に当方に移籍し、日劇ダンシングチームを育てるなど演出家としての才能も発揮した。
牛込余丁町の秦家の屋敷には、豊吉の友人の芥川龍之介もときどき遊びに来た。龍之介には絵心があって、ちゃぶ台で幼い母の似顔絵を描いてくれたという。そんな影響もあってか、母は若いころは文学志望だったようだ。「水島京子」の筆名で懸賞小説に応募し、自作の小説が雑誌に載ったことも何度かあった。
私が生まれたのは、結婚から9年がたち、父母がロンドンに駐在していた1930年のことだ。母は一度流産しており、両親とも子供は諦めていたそうだ。妊娠がわかって、父は大量のミネラルウオーターを取り寄せた。生まれてくる子供を大事に育てるために万全を期したのだ。
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単語
秀才 しゅうさい
槇原覚 まきはらさとる
神代 かみよ
逸話 いつわ
使い走り
子守 こもり
一橋大学 ひとつばしだいがく
岩崎弥太郎 いわさきやたろう
岩崎久弥 いわさきひさや
本郷龍岡町 ほんごうりゅうおかまち
浅黒い あさぐろい
金時計 きんどけい
秦豊吉 はたとよきち
傍ら かたわら
森鴎外 もりおうがい
日劇 にちげき
牛込余丁町 うしごめよちょうまち
芥川龍之介 あくたがわりゅうのすけ
絵心 えごころ
ちゃぶ台 ちゃぶだい
筆名 ひつめい
流産 りゅうざん
2009年12月19日星期六
人生の半分は海外生活 心はいつも日本とともに
すべて自然体
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by 槇原稔
1930年(昭和5年)生まれの私はいわゆる「昭和1けた世代」に属するが、同じ世代の多くの日本人とはかなり異なる経験を歩んできた。父の仕事の関係でロンドンで生まれた。戦後は縁があって米国に留学し、ニューハンプシャー州にあるセント・ポールズ高校を経て、ハーバード大学に学んだ。
帰国後は父の勤め先であった三菱商事から誘いがあり、入社を決めた。高度成長時代をビジネスマンとして過ごしたが、いわゆる「モーレツ社員」ではなく、社外の人たちとの付き合いも大切にしてきた。92年の社長昇格は、私にとっても、おそらく周囲にとっても、誠に意外なことであった。
私の社長人事が発表されたとき、若いころから読み親しんできたニューヨーク・タイムズ紙は「同世代の青年達が東京大学の入試に苦労しているとき、マキハラはニューイングランドの名門高に通っていた」「三菱の同僚が本社で出世の階段を登っているときに、マキハラはロンドンやワシントンに駐在し、20年以上を過ごした」と書いた。
海外メディアから見ても「異邦人」「エイリアン」と呼ばれた私のような経歴の人間がいわゆる日本の代表的企業のトップに座るのは驚き以外の何ものでもなかったのだろう。
私自身、自分の人生がなぜこんな軌跡をたどったのかはよく分からない。若くして亡くなった父や一人息子の私に愛情を注いでくれた母の有形無形の影響は大きかった。社会に出てからは友人や上司に恵まれ、かつ運が良かったことは確かだ。
若いころから無理はせず、自然体で生きてきた。ポストやその他のものをめぐって、他人と争うこともなかった。「入学試験や入社試験の類は一度設けたことがない」というと、びっくりする人が多い。
私が7歳から19歳まで過ごした東京・吉祥寺の成蹊学園の校名は「桃李ものいわざれども、下おのづから蹊を成す」に由来する。自分に「桃李」ほどの魅力があるとは思えないが、誠実に努力すれば周囲は認めてくれる、というのがとりあえずの結論である。
今年夏、英国出張のおり幼少期を過ごしたロンドン近郊のハムステッドという町を再訪すると、父母とともに暮らしたアパートメントが今もあった。外壁はきれいに塗り直されているが、玄関や窓の形は当時のまま。感慨にふけっていると、私と同年配の紳士が通りがかり「何をしているのか」と聞く。「実は70年前にここに住んでいた」というと、「それは奇遇。私もそのころからの住人だ」
誘われるままに彼の部屋を訪ねると、窓から見える風景は往時とのほとんど変わっていない。近所の友達を集めて開いた6歳の誕生日パーティーが思い出された。
考えてみると、このアパートを振り出しに人生の半分近くを英国と米国で過ごしたことになる。だが、日本の内と外を往来しながらも、心はつねに日本とともにあった。ビジネスの前線を退いた今、戦前から続く東洋学の研究拠点、東洋文庫の理事長を務めているのも何かの縁だろう。「こんな人生も面白そうだ」と、読者のかたがたに思って頂ければ幸いである。
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単語
槇原稔 まきはらみのる
外壁 がいへき
成蹊学園 せいけいがくえん
桃李もの言わざれども、下おのづから蹊を成す とうりものいわざれども、したおのづからみちをなす
往時 おうじ
退く しりぞく
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by 槇原稔
1930年(昭和5年)生まれの私はいわゆる「昭和1けた世代」に属するが、同じ世代の多くの日本人とはかなり異なる経験を歩んできた。父の仕事の関係でロンドンで生まれた。戦後は縁があって米国に留学し、ニューハンプシャー州にあるセント・ポールズ高校を経て、ハーバード大学に学んだ。
帰国後は父の勤め先であった三菱商事から誘いがあり、入社を決めた。高度成長時代をビジネスマンとして過ごしたが、いわゆる「モーレツ社員」ではなく、社外の人たちとの付き合いも大切にしてきた。92年の社長昇格は、私にとっても、おそらく周囲にとっても、誠に意外なことであった。
私の社長人事が発表されたとき、若いころから読み親しんできたニューヨーク・タイムズ紙は「同世代の青年達が東京大学の入試に苦労しているとき、マキハラはニューイングランドの名門高に通っていた」「三菱の同僚が本社で出世の階段を登っているときに、マキハラはロンドンやワシントンに駐在し、20年以上を過ごした」と書いた。
海外メディアから見ても「異邦人」「エイリアン」と呼ばれた私のような経歴の人間がいわゆる日本の代表的企業のトップに座るのは驚き以外の何ものでもなかったのだろう。
私自身、自分の人生がなぜこんな軌跡をたどったのかはよく分からない。若くして亡くなった父や一人息子の私に愛情を注いでくれた母の有形無形の影響は大きかった。社会に出てからは友人や上司に恵まれ、かつ運が良かったことは確かだ。
若いころから無理はせず、自然体で生きてきた。ポストやその他のものをめぐって、他人と争うこともなかった。「入学試験や入社試験の類は一度設けたことがない」というと、びっくりする人が多い。
私が7歳から19歳まで過ごした東京・吉祥寺の成蹊学園の校名は「桃李ものいわざれども、下おのづから蹊を成す」に由来する。自分に「桃李」ほどの魅力があるとは思えないが、誠実に努力すれば周囲は認めてくれる、というのがとりあえずの結論である。
今年夏、英国出張のおり幼少期を過ごしたロンドン近郊のハムステッドという町を再訪すると、父母とともに暮らしたアパートメントが今もあった。外壁はきれいに塗り直されているが、玄関や窓の形は当時のまま。感慨にふけっていると、私と同年配の紳士が通りがかり「何をしているのか」と聞く。「実は70年前にここに住んでいた」というと、「それは奇遇。私もそのころからの住人だ」
誘われるままに彼の部屋を訪ねると、窓から見える風景は往時とのほとんど変わっていない。近所の友達を集めて開いた6歳の誕生日パーティーが思い出された。
考えてみると、このアパートを振り出しに人生の半分近くを英国と米国で過ごしたことになる。だが、日本の内と外を往来しながらも、心はつねに日本とともにあった。ビジネスの前線を退いた今、戦前から続く東洋学の研究拠点、東洋文庫の理事長を務めているのも何かの縁だろう。「こんな人生も面白そうだ」と、読者のかたがたに思って頂ければ幸いである。
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単語
槇原稔 まきはらみのる
外壁 がいへき
成蹊学園 せいけいがくえん
桃李もの言わざれども、下おのづから蹊を成す とうりものいわざれども、したおのづからみちをなす
往時 おうじ
退く しりぞく
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