2010年3月25日星期四

CentOS 5.1 でRails環境構築 エラー(uninitialized constant MysqlCompat::MysqlRes)

CentOS5.1

Yumでインストール
  ruby 1.8.5

gem list


*** LOCAL GEMS ***

actionmailer (2.3.5)
actionpack (2.3.5)
activerecord (2.3.5)
activeresource (2.3.5)
activesupport (2.3.5)
capistrano (2.5.18, 2.5.14)
fastthread (1.0.7)
highline (1.5.2)
mysql (2.8.1)
net-scp (1.0.2)
net-sftp (2.0.4)
net-ssh (2.0.21, 2.0.19)
net-ssh-gateway (1.0.1)
passenger (2.2.11, 2.2.9)
rack (1.1.0, 1.0.1)
rails (2.3.5)
rake (0.8.7)
rubygems-update (1.3.6, 1.3.5)




下記のエラーででる


  Status: 500 Internal Server Error
  uninitialized constant MysqlCompat::MysqlRes


原因は良く分かりませんが、たぶんCentOSのmysql.develと不整合だと思う。
2.7バージョンでmysqlをインストールすることで解決できる。

sudo gem install mysql --version '= 2.7' -- --with-mysql-lib=/usr/lib/mysql

2010年2月22日星期一

Railsエラーメッセージ日本語化(参考)

(省略)
    errors:
      messages:
        inclusion: "は一覧にありません。"
        exclusion: "は予約されています。"
        invalid: "が不正な値です。"
        confirmation: "が一致しません。"
        accepted: "を承諾してください。"
        empty: "が記入されていません。"
        blank: "が記入されていません。"
        too_long: "は{{count}}文字以内で記入してください。"
        too_short: "は{{count}}文字以上で記入してください。"
        wrong_length: "は{{count}}文字で記入してください。"
        taken: "はすでに使用されています。"
        not_a_number: "は数値で入力してください。"
        greater_than: "は{{count}}より大きい値を指定してください。"
        greater_than_or_equal_to: "は{{count}}以上の値を指定してください。"
        equal_to: "は{{count}}を指定してください。"
        less_than: "は{{count}}より小さい値を指定してください。"
        less_than_or_equal_to: "は{{count}}以下の値を指定してください。"
        odd: "は奇数を指定してください。"
        even: "は偶数を指定してください。"
        # Append your own errors here or at the model/attributes scope.

      models:
        # Overrides default messages

      attributes:
        # Overrides model and default messages.

2009年12月21日星期一

愛情に包まれた英生活 7歳で帰国、成蹊学園に入学

幼少期
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by 槇原稔

ロンドンで生まれた私は家族の愛情に包まれ、穏やかな幼少期を送った。クリスマスや誕生日には友達を家に招き、パーティーを開いてもらった。夏休みは一家で田舎で過ごす習慣だった。雑木林にジュシマツの巣があり、卵を見つけたときは、大興奮して父母に報告した。
ロンドンで忘れられないのは、私の面倒を見てくれたスコットランド出身のミス・グラントという住み込みのナニー(養育係り)だ。後に青年時代に米国に留学したとき、周囲のアメリカ人から「イギリス風の英国だね」とよく言われた。「小さいころ、ミス・グラントと喋っていたおかげだろう」と思い込んでいたのだが、これが全くの間違いと判明する。
成人した後にエジンバラに住んでいた彼女を訪ねると、スコットランドなまりが強く、聞き取るのに苦労した。英国風のアクセントがどこで身についたのか、自分でもいまだに謎のままだ。
家には三菱商事のロンドン支店に勤めていた父の仕事関係の来客が多く、母はそちらに忙殺された。が、私の教育には熱心で、日本語の先生は母だった。
小学校に入学する直前には「水泳だけはできたほうがいい」ということになって、腹の下に紐をかけて、プールの中をぐいぐい引っ張られた記憶がある。今から思うと珍妙な訓練だったが、おかげで泳ぎを覚えた。ちなみに母はそれまでかなづちだったが、私に教えるために自分でまず水泳をマスターしたそうだ。
日本に帰国したのは1937年、7歳のときだ。米大陸経由で横浜に着いた、船員たちに良く遊んでもらったこと、ニューヨークで同地の三菱商事の支店長の歓迎を受けたことなどが思い出される。
思えば7歳までロンドンにいたのは僥倖だった。5歳までに帰国した人には、まるっきり英国を忘れてしまった人が多いが、私はそうはならなかった。英語という言葉が、人生の大きな導き手になったのは往々詳述したい。
父はその後すぐにロンドン支店長として単身で再赴任し、私は母と二人で東京に残った。当時父から来た手紙が幾つか残っている。40年7月の手紙にはこうある。
「稔はだんだん字が上手になるし、間違いがなくなってきた。ミス・グラントにみせたら日本時でも稔の成長が分かるといっていた。Daddy(お父さん)も鼻高々さ」。そう書いた手紙の片隅には鼻のイラストがついていた。
冗談だが父の手紙をみると達筆に驚かされる。母文字は下手ではない。ところが、私は若いころから悪筆で、この履歴書の題字を書くにも苦労した。なぜ両親の達筆を受け継がなかったのか、いまでも悔まれる。
それはともかく、私も頻繁に手紙を書いた。シベリア鉄道経由で送ると船便より早くつくので、いつもシベリア経由で投函した。
帰国後入学したのは三菱グループとゆかりの深い東京・吉祥寺の成蹊学園。当時の成蹊に今までいう海外帰国子女をあつめた操洋学級というクラスがあった。すぐに日本の生活になじめ、友達もたくさんできた。幼かった私は、愉快で満ち足りた日々がいつまでも続くものと信じていた。

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単語

雑木林 ぞうきばやし
じゅうしまつ a chinese hawk-cuckoo
スコットランド scottland 英国、大ブリテン島北部
金槌 かなづち
珍妙 ちんみょう
僥倖 ぎょうこう
追々 おいおい
詳述 しょうじゅつ
鼻高々 はなたかだか
達筆 たっぴつ
悪筆 あくひつ
満ち足りる みちたりる

2009年12月20日星期日

秀才の父 苦学し大学へ 文学好き母は芥川と面識

両親
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by 槇原 稔

私の父、槇原覚は1894年に鳥取との県境に近い岡山の神代村という農村に生まれた。家は小作農で、経済的には貧しかったが、勉強は抜群できたらしい。こんな逸話がある。小学校の先生が教室で質問すると、窓の外から答えが返ってきた。驚いて外を見ると、学校に上がる前に小さな子ともがいて、それが父であった。校庭で遊ぶついでに先生の話を聞いて、すらすら内容を理解したという。
そんな父が親戚を頼って上京したのは14歳のときだった。最初は使い走りや子守を経て、一橋大学に進んだ。貧しい出身の父がこの時代に最高学府まで進学できたのは、一つの縁に恵まれたからだ。
三菱の創業者として有名な岩崎弥太郎には久弥という長男がおり、久弥には3人の息子がいた。久弥はこの3人を手元におかず、本郷龍岡町に寮を作り、教育者を迎えて、同年代の青年達を学友として同居させた。
これは息子達の教育のためであったが、同時に将来の三菱の幹部の養成を考えていたのかもしれない。様々な大学から学生が集まった。父もその一人に選ばれ、援助を受けることになったのだ。父と岩崎家にどんな接点があったのか今では知る由もないが、地方出身の苦学生にとって、これはたいへん幸運なことだった。
お金の苦労から解放された父はテニスに熱中し、いつも浅黒く日焼けしていたという。学業でも優秀な成績を収めた。卒業式で送られたという金時計は、残念ながらもう残っていないが・・・・・・。
卒業後は当然のように三菱商事の門をたたき、1921年に母の治子(旧姓・秦)と結婚した。父28歳、母21歳。この2人の仲を取り持ったのが、母の兄で、三菱商事の社員だった秦豊吉である。
小作農の出身である父とは対照的に、母の実家の秦家は東京で薬商を営み、裕福な暮らしぶりだったようだ。親戚には歌舞伎役者もおり、さらに豊吉は商社務めの傍ら文化的な方面でも活躍した。
戦前にはレマルクの「西部戦線異状なし」やゲーテの「ファウスト」を翻訳し、文名を上げた。「ファウスト」についてはすでに森鴎外の訳があった。「なぜ改めて君が訳すのか」と聞かれた豊吉は、「鴎外はファウスト博士と悪魔のメフィストフェレスの関係を誤解している。その誤りを正したい」と答えだそうだ。後に当方に移籍し、日劇ダンシングチームを育てるなど演出家としての才能も発揮した。
牛込余丁町の秦家の屋敷には、豊吉の友人の芥川龍之介もときどき遊びに来た。龍之介には絵心があって、ちゃぶ台で幼い母の似顔絵を描いてくれたという。そんな影響もあってか、母は若いころは文学志望だったようだ。「水島京子」の筆名で懸賞小説に応募し、自作の小説が雑誌に載ったことも何度かあった。
私が生まれたのは、結婚から9年がたち、父母がロンドンに駐在していた1930年のことだ。母は一度流産しており、両親とも子供は諦めていたそうだ。妊娠がわかって、父は大量のミネラルウオーターを取り寄せた。生まれてくる子供を大事に育てるために万全を期したのだ。

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単語

秀才 しゅうさい
槇原覚 まきはらさとる
神代 かみよ
逸話 いつわ
使い走り
子守 こもり
一橋大学 ひとつばしだいがく
岩崎弥太郎 いわさきやたろう
岩崎久弥 いわさきひさや
本郷龍岡町 ほんごうりゅうおかまち
浅黒い あさぐろい
金時計 きんどけい
秦豊吉 はたとよきち
傍ら かたわら
森鴎外 もりおうがい
日劇 にちげき
牛込余丁町 うしごめよちょうまち
芥川龍之介 あくたがわりゅうのすけ
絵心 えごころ
ちゃぶ台 ちゃぶだい
筆名 ひつめい
流産 りゅうざん

2009年12月19日星期六

人生の半分は海外生活 心はいつも日本とともに

すべて自然体
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by 槇原稔

1930年(昭和5年)生まれの私はいわゆる「昭和1けた世代」に属するが、同じ世代の多くの日本人とはかなり異なる経験を歩んできた。父の仕事の関係でロンドンで生まれた。戦後は縁があって米国に留学し、ニューハンプシャー州にあるセント・ポールズ高校を経て、ハーバード大学に学んだ。
帰国後は父の勤め先であった三菱商事から誘いがあり、入社を決めた。高度成長時代をビジネスマンとして過ごしたが、いわゆる「モーレツ社員」ではなく、社外の人たちとの付き合いも大切にしてきた。92年の社長昇格は、私にとっても、おそらく周囲にとっても、誠に意外なことであった。
私の社長人事が発表されたとき、若いころから読み親しんできたニューヨーク・タイムズ紙は「同世代の青年達が東京大学の入試に苦労しているとき、マキハラはニューイングランドの名門高に通っていた」「三菱の同僚が本社で出世の階段を登っているときに、マキハラはロンドンやワシントンに駐在し、20年以上を過ごした」と書いた。
海外メディアから見ても「異邦人」「エイリアン」と呼ばれた私のような経歴の人間がいわゆる日本の代表的企業のトップに座るのは驚き以外の何ものでもなかったのだろう。
私自身、自分の人生がなぜこんな軌跡をたどったのかはよく分からない。若くして亡くなった父や一人息子の私に愛情を注いでくれた母の有形無形の影響は大きかった。社会に出てからは友人や上司に恵まれ、かつ運が良かったことは確かだ。
若いころから無理はせず、自然体で生きてきた。ポストやその他のものをめぐって、他人と争うこともなかった。「入学試験や入社試験の類は一度設けたことがない」というと、びっくりする人が多い。
私が7歳から19歳まで過ごした東京・吉祥寺の成蹊学園の校名は「桃李ものいわざれども、下おのづから蹊を成す」に由来する。自分に「桃李」ほどの魅力があるとは思えないが、誠実に努力すれば周囲は認めてくれる、というのがとりあえずの結論である。
今年夏、英国出張のおり幼少期を過ごしたロンドン近郊のハムステッドという町を再訪すると、父母とともに暮らしたアパートメントが今もあった。外壁はきれいに塗り直されているが、玄関や窓の形は当時のまま。感慨にふけっていると、私と同年配の紳士が通りがかり「何をしているのか」と聞く。「実は70年前にここに住んでいた」というと、「それは奇遇。私もそのころからの住人だ」
誘われるままに彼の部屋を訪ねると、窓から見える風景は往時とのほとんど変わっていない。近所の友達を集めて開いた6歳の誕生日パーティーが思い出された。
考えてみると、このアパートを振り出しに人生の半分近くを英国と米国で過ごしたことになる。だが、日本の内と外を往来しながらも、心はつねに日本とともにあった。ビジネスの前線を退いた今、戦前から続く東洋学の研究拠点、東洋文庫の理事長を務めているのも何かの縁だろう。「こんな人生も面白そうだ」と、読者のかたがたに思って頂ければ幸いである。


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単語

槇原稔 まきはらみのる
外壁 がいへき
成蹊学園 せいけいがくえん
桃李もの言わざれども、下おのづから蹊を成す とうりものいわざれども、したおのづからみちをなす
往時 おうじ
退く しりぞく

2009年12月15日星期二

バトンタッチ 心の準備 親子の夢、次女がパリデビュー

次世代
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白い画用紙の上を鉛筆が滑らかに走る。今でもこの瞬間が楽しくてたまらない。枕元にスケッチブックを置き、気分が乗ればいつでも鉛筆を動かし、洋服のデザインに思いを巡らす。イブニングドレスから肩の力を抜いたカジュアルウエアまで。どんなデザインもおもいのままだ。大切なのは全体のプロポーションとリズム感。まずは美しい服があり、体の方をそれに合わせるというのが私の持論。右の肩が下がっているのなら、姿勢を矯正すべきだし、ダメならパッとで補整すればよい。そんな気持ちでひたすら仕事に取り込んできた。
「仕事はサーカスの玉乗りのようなもの。足を止めたら転がり落ちて大ケガをする」。私は会社経営をこうたとえてきた。「引退はまだまだ先のこと」と思っているが、この8月21日でとうとう79歳の誕生日を迎えた。さて、この「玉乗り」はいつまで続くのだろうかーー。ただ気力が充実している限り、第一線で走り続けようと思っている。
東京・渋谷の雑居ビルの2階で社員10人ほどで会社を始めたのが1963年(昭和38年)。それが今では社員約400人、年商約120億円。その間、妻と二人三脚で高島屋の顧問デザイナーや皇室デザイナーなどを務め、96年にはアトランタ五輪の日本選手団公式ユニフォームのデザインも手がけることが出来た。
パリの目抜き通りにオープンした直営店は20周年を迎え、売り上げは堅調だ。2002年(平成14年)に発表した「コンパス」という中心を丸く繰り抜いた円形ストールもヒット商品に育った。何とかここまでやってこられたのは、ひとえにすばらしい人との出会いと支援があったからだと深く感謝している。
ところでこの「コンパス」は実用性と美しさを兼ね備えた私のデザインの集大成となった。頭からかぶればマント風、襟元に巻けばドレス風・・・・・・。着方によって様々に表情が変わるのが特徴だ。
思い出すのは05年2月。ウィーン国立歌劇場でソプラノ歌手、グルベローヴァがその「コンパス」を着てステージに上がったことである。
歌劇「ノルマ」を披露した晴れ舞台。彼女は自ら選んだ白い毛皮で縁取りされた楕円形の「コンパス」を身にまとい、心のこもったつややかな歌声を響かせていた。客席からは万雷の拍手がいつまでも鳴り止まなかった。
昨夏には、大きな節目がやってきた。91年に東京コレクションでデビューした次女の多恵がパリで始めてショーを披露したのだ。親子にとって長年の夢だった。私は77年にパリコレに参加し、3年で見切りをつけたから、芦田家としては実に29年ぶりのパリでのショーとなった。
私と妻はあえて欠席し、日本で娘の帰りを待っていた。親がしゃしゃり出たら、娘が脇役になってしまうからだ。次女には随分、昔からパリに出るようにと進めてきたが「もし失敗したら、父の名を汚してしまう」と娘の方が慎重だった。今回のショーは次女にとって意味のある一歩になった。大きな自信にもつながったはずだ。
いつかバトンタッチする日が来るまでーー。私がこれまで人生を通じて得た様々な経験と教訓を次世代にも伝えることが出来るのなら、これ以上の幸せはない。

終わり
(ファッションデザイナー)

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単語

枕元 まくらもと
玉乗り たまのり
雑居 ざっきょ
二人三脚 ふたりさんきゃく
毛皮 けがわ
昨夏 さくか
節目 ふしめ

2009年12月14日星期一

NYで前兆、急遽帰国 奇跡の回復、早朝テニスは封印

脳梗塞
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発作の前触れがあったのはニューヨークのホテルだった。「しゃべっているときの語尾がなんだか変だよ」。有事からこう言われていた。疲れが原因かと思って、当地に駐在していた長女の家族たちと予定していたミュージカル鑑賞をキャンセルし、ホテルの部屋で休んでいたのだ。
私は上半身がふらふら出、壁に手をつかなければ歩けない状態だった。課鏡に移った自分の顔は土色でまったく血の気がなかった。現地の日本人医師に診察してもらうと、早く帰国して精密検査を受けたほうが良いという。そこで急遽、チケットを手配し、日本に帰国することにした。
「使い慣れた湯船に浸かってから、寝床でゆっくり休もう」。そう思って、自宅の風呂場から出たところで電話が鳴った。掛かり付けの病院の医師からだった。「芦田先生、ダメですよ。すぐに入院してください。危険な状態です。スタッフが待機していますから」という。そのまま緊急入院することになった。
この判断は的確だった。翌日、脳梗塞の発作が私を襲ったのだ。最初は右手の指先の痺れだった。それが手のひら、手首、腕、肩と伝わり、あっという間に右半身全体に広がった。もう助けを呼ぼうにも思うように口が動かない。「お、お、おお・・・・・・」とどもったまま私はベッドの上でもがいていた。
幸い、回診中の医師に見つかり、助かったが、もし自宅で発作が起きていたら都思うとぞっとする。「万一のこともあるので親族にも連絡を取れるように」。妻や娘には病院から内々にこんな打診があったようだ。ところが奇跡が起きた。この迅速な診療が予想以上の成果を挙げたのだ。
症状はみるみる回復し、2週間ほどで退院できるまでになった。入院中は出された食事をきちんと間食し、規則正しい生活を送り、優等生だと褒められた。「優等生だ出ずに退院できる人なんて珍しい。幸運ですよ」。婦長さんからもこう言われた。
その間、頭が下がったのは妻の友子だ。緊急治療室の硬くて小さなベンチに見に横たえ、何日も献身的に看病してくれた。おそらく満足には眠れなかったと思う。ありがたいことだと思っている。
後遺症ではないが、一つだけ影響が出た。それは、大好きなテニスを諦めなければならなかったこと。大学に行かなかった私は、体育会に所属してスポーツをバリバリ出来なかったことが心残りだった。そこで51歳になってからテニスを始めた。東京・用賀に専用のコートを2面作り、1年に200日もテニス漬けになっていたのだ。
朝6時にはコートに立ち、8時までラケットを振って汗を流す毎日。そしてシャワーを浴びて9時の会社の朝礼にでるのである。練習相手は慶応大学のテニス同好会出身の若者達。時には日本プロテニス協会の理事長でデビスカップに出場した渡辺功プロにも直接指導してもらった。「遅い青春」を取り戻そうという気持ちからだった。
テニス日記の日付は1982年元日から1998年11月29日まで、さすがに脳梗塞の発作が出て「もう潮時か」と覚悟を決めた。こうして私の「遅い青春」は静かに幕を下ろした。それは、病魔から完全に復帰できたことへのささやかな代償だったのかもしれない。



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単語

早朝 そうちょう
脳梗塞 のうこうそく
土色 つちいろ
血の気 ちのけ
湯船 ゆぶね
迅速 じんそく
婦長 ふちょう
献身的 けんしんてき
心残り こころのこり